第9話 ごめんねの先に 鈴の鳴る夜
彼女は、夫にすべてを話していない。
結婚して三年。
夫は穏やかで、感情を荒立てることがない。
「無理しなくていいよ」が口癖。
だが彼女は、その優しさの奥に入れていない。
学生時代に飼っていた猫のこと。
あの灰色の毛並み。
赤い首輪の鈴。
望まぬ妊娠がわかったとき、彼女は怖かった。
若すぎた。
生活も不安定だった。
実家に戻ると決めた日、猫を知人に預けた。
「落ち着いたら迎えに行くから」
そう言った。
けれど迎えに行かなかった。行けなかった。
しばらくして、知人から短いメッセージが届いた。
“いなくなった”
それだけ。
探してくれたのかどうか、聞けなかった。
自分が見捨てたのだから、責める資格はないと思った。
その後、子どもは生まれなかった。
そして今。
彼女は再び彼の子を妊娠している。
病院からの帰り道、夫が嬉しそうに言う。
「今度こそ、ちゃんと準備しような」
“今度こそ”。
その言葉に、胸が刺される。
守れなかったものが、胸の奥で動き出す。
夜、ベッドの中で夫がそっとお腹に手を当てる。
「大丈夫だよ」
その声に、彼女は目を閉じる。
大丈夫じゃない。
私は、守れなかった。
猫も。
あの子の命も。
夫は知らない。
彼女の罪を。
そして彼女も知らない。
夫が、どれだけ気づいているかを。
・・・雨の夜だった。
マンションの階段を上るとき、
彼女はふと立ち止まった。
チリン。
小さな、金属の触れ合う音。
気のせいだと思った。
また一段、上る。
チリン。
今度ははっきり聞こえた。
首筋が、ゆっくりと冷える。
鈴の音。
赤い首輪につけていた、小さな鈴。
彼女は振り向く。
誰もいない。
階段の踊り場に、雨の匂いが溜まっているだけ。
「・・・ばかみたい」
小さく呟く。
妊娠してから、少し神経が過敏になっているのかもしれない。
エコー写真が入った封筒を胸に抱え、玄関の鍵を開ける。
部屋は静かだ。
夫はまだ帰っていない。
靴を脱いだ瞬間、足元を何かがすり抜けた気がした。
ひやり、とした空気。
思わず息を止める。
もちろん何もいない。
わかっている。
それでも、胸の奥で何かが目を覚ます。
灰色の毛並み。
冷たい夜。
布団をめくると、するりと潜り込んできた、あの小さな体。
彼女は思い出す。
あの猫は、甘え下手だった。
昼間はどこか離れた場所で丸くなり、撫でようとすると、すぐ逃げる。
けれど、寒い夜だけは違った。
布団の端を、前足で器用に押し上げる。
そこに隙間を作ると、ぐいっと迷いなく入ってくる。
彼女のお腹のあたりで丸くなり、小さな背中を押しつける。
体温が、じんわりと伝わる。
柔らかな毛並み。
規則正しい呼吸。
あの温かさに包まれて眠るときだけ、彼女は“守られている”気がした。
なのに。
ソファに腰を下ろす。
無意識に、お腹に手を当てる。
「今度は」
声が、かすれる。
今度は、守れるだろうか。
あのとき。
猫を知人に預けた日。
キャリーケースの中から、あの子は一度も鳴かなかった。
ただ、まっすぐこちらを見ていた。
責めるでもなく、縋るでもなく。
あの目が、今も消えない。
チリン。
また音がした。
今度は、部屋の中。
彼女は立ち上がる。
リビングの隅。
何もない。
だが、空気だけが少し温かい。
まるで、誰かがそこに丸くなっていたかのように。
彼女はそっとしゃがみ込む。
手を伸ばす。
指先が、床の上で止まる。
「・・・ごめんね」
言葉が、初めて漏れる。
それは猫に向けたのか、あの頃の自分に向けたのか、わからない。
玄関の鍵が回る音がする。
夫が帰ってきた。
彼女は慌てて立ち上がる。
「ただいま」
明るい声。
彼は彼女の顔を見て、少し眉をひそめる。
「どうした? 顔色、悪いぞ」
彼女は笑う。
「なんでもない」
嘘だ。
でも、まだ言えない。
夫がキッチンへ向かう足音を聞きながら、彼女はもう一度、床を見る。
何もいない。
けれど、確かに感じた。
あの体温。
あの柔らかさ。
それは責めるためではなく、思い出させるために戻ってきた気がした。
彼女は静かに息を吐く。
夜は、まだ始まったばかりだった。
・・・それから数日、鈴の音は聞こえなかった。
代わりに、彼女の中で何かがほどけ始めていた。
スーパーの帰り道、小さなペットショップの前を通る。
ガラス越しに子猫が眠っている。
無防備な姿。
胸が、ぎゅっと締めつけられる。
あの子は、無防備ではなかった。
灰色の猫は、警戒心が強かった。
抱き上げても体を預けない。
爪を立てることはないが、いつもどこかで距離を測っていた。
それでも。
夜になると、布団に潜ってきた。
寒い夜だけ。
あれは、甘えだったのだろうか。
それとも、ただ暖を取りに来ただけなのか。
彼女はずっと考えてきた。
でも本当は、理由なんてどうでもよかった。
あの温もりが、自分を必要としてくれている証のようで、うれしかったのだ。
家に帰ると、夫がダイニングで育児雑誌を広げていた。
「ベビーベッド、どうする?」
明るい声。
「中古でもいいけどさ、新しいの買う?」
彼女は少し黙る。
「まだ早いよ」
「もう三か月だろ?」
“もう”。
その言葉が刺さる。
あのときは、“まだ”。
まだ若い。まだ不安定。まだ準備ができていない。
だから猫を預けた。
だから——。
「どうした?」
夫が顔をのぞき込む。
「・・・なんでもない」
また言えない。
夜、ベッドに入る。
夫はすぐに眠った。
彼女は目を閉じられない。
ふと、布団の端を持ち上げたくなる。
癖のように。
そこに、するりと潜り込んでくる感触を身体が覚えている。
もちろん、何も入ってこない。
だがその代わりに、記憶が入り込んでくる。
キャリーケースの重み。
知人の家の玄関。
「大丈夫よ、うちも猫いるし」
安心させる声。
灰色の猫は鳴かなかった。
ただ、静かにこちらを見ていた。
その目を、彼女は今でも思い出せない。
冷たかったのか。
寂しかったのか。
覚えていない。
それがいちばん、怖い。
数日後。
雨が降り出した午後、彼女はなぜか足が向き、小さな保護猫カフェの前に立っていた。
ガラス扉の向こうに、丸まった猫たち。
鈴はついていない。静かな空間。
ドアを開けると、温かい匂いがした。
猫特有の、少し甘い匂い。
スタッフに促されて座る。
数匹が近づき、すぐに離れる。
その中で一匹だけ、奥の窓辺で、灰色の猫がじっとこちらを見ていた。
彼女はその猫と目が合った。
一瞬、時間が止まったように感じた。
茶色と白の混じった毛並み。
耳の先だけが少し黒い。
右目の下に、小さな三日月みたいな模様。
胸の奥が、ひゅっと縮む。
——あれ?
彼女は思わず、もう一歩近づいた。
猫は逃げなかった。ただ、じっとこちらを見ている。
その目の色が、あまりに静かで、あまりに遠い。
「・・・似てる」
無意識に、声が漏れた。
昔の猫にも、同じ場所に薄い模様があった。
小さなころ、彼女はそこを指でなぞって、「ここがあなたのしるしね」と笑った記憶がある。
もちろん、同じ模様の猫なんて、いくらでもいるだろう。
そう思うのに、指先が震えた。
猫が、ゆっくりと立ち上がる。
そして、彼女の膝の前まで歩いてきて、ふいに体をこすりつけた。
その重さ。
その柔らかさ。
鼻先がそっと彼女の手に触れる感触。
記憶の奥で、寒い夜の布団の中のぬくもりが蘇る。
あの夜と同じように、猫は少しだけ迷うそぶりを見せてから、彼女の膝の上に丸くなった。
——そんなこと、あるはずない。
理性が言う。
けれど、猫は彼女の手の下で、安心したように目を閉じた。
その瞬間、彼女の胸の奥で、長い間凍っていた何かが、じわりと溶けはじめる。
「・・・ごめんね」
言葉は、誰に向けたものなのか、自分でもわからなかった。
猫は答えない。
ただ、ゆっくりと喉を鳴らした。
その音は、遠い昔、彼女の胸の上で聞いた音と、あまりに似ていた。
今度ははっきりと言葉になる。
「寒い夜、あたたかかったよね」
ぽろぽろと涙が落ちた。
猫は顔を上げ、小さく喉を鳴らす。
ゴロゴロ、と。
責めるでもなく、慰めるでもなく。
ただ、そこにいる。
彼女は初めて気づく。
自分が手放したのは、猫だけではなかった。
“守る覚悟”を、置いてきたのだ。
帰宅すると、夫が心配そうに立ち上がる。
「どこ行ってた?」
「・・・猫カフェ」
夫は少し驚き、それから笑う。
「急にどうした」
彼女は答えない。
まだ全部は言えない。
でも、もう隠しきれないところまで来ている。
夜。
布団に入る。
ふと、夫の手がお腹に触れる。
その温かさに、彼女は目を閉じる。
今度は逃げない。
過去も。
罪も。
猫の体温は、責めるためではなく、思い出させるためにあったのだと、ようやくわかり始めていた。
・・・
「一回、行ってみない?」
夕食のあと、彼女はぽつりと言った。
自分でも驚くほど、声は静かだった。
夫は少し目を丸くしたが、すぐに頷いた。
「うん。行こう」
週末の午後、二人は並んで猫カフェの扉を押した。
小さな鈴が鳴る。
あの猫は、前と同じ窓辺にいた。
陽だまりの中で、目を細めている。
彼女の足が止まる。
胸の奥で、何かが波打つ。
猫がこちらを見た。
一瞬、視線が絡む。
猫はゆっくり立ち上がり、迷いなく彼女のほうへ歩いてきた。
夫が小さく息をのむ。
「・・・懐いてるね」
猫は彼女の足元で一度だけ鳴き、膝へ飛び乗った。
丸くなる。
その重み。
その温度。
彼女の喉がひくりと震える。
夫は隣で黙って見ている。
彼女の指が、そっと猫の背中をなぞる。
耳の先の黒い毛。
右目の下の、三日月みたいな模様。
「やっぱり、似てる・・・」
それは、ほとんど独り言だった。
店を出たあと、彼女は何度も振り返った。
猫は窓辺に戻り、じっとこちらを見ていた。
見送るようにも、ただ眺めているだけのようにも見える、あの静かな目で。
・・・帰りの車内は、静かだった。
家に着いて、靴を脱いだとき。
彼女の中で、何かが決壊した。
「・・・あの子に、あの子に、会いに行けなかったの」
夫が振り向く。
「昔、飼ってた猫。引っ越しで手放して・・・迎えに行くって、約束したのに」
声が震える。
「行けなかった。忙しいとか、新しい生活とか、いろんな理由を並べて・・・本当は、怖かっただけなのに」
涙がこぼれ落ちた。
「待ってたと思う。ずっと・・・」
堰を切ったように言葉があふれる。
「今日の猫ね、膝に乗ってきたの。あの子と同じみたいに。
寒い夜、布団に入ってきたときみたいに・・・」
息が乱れる。
「許してくれてる気がして。でも、それって私の都合だよね? 勝手すぎるよね?」
叫びに近い声。
夫は、しばらく黙っていた。
そして、ゆっくり近づく。
「ずっと、一人で抱えてたんだね」
その言葉で、彼女は崩れ落ちる。
「言えなかった・・・軽蔑されると思って」
「しないよ」
迷いのない声だった。
夫は彼女の背をさすりながら続ける。
「後悔してるってことは、それだけ大事だったってことだろ?」
彼女は涙の中で顔を上げる。
「もし似てるって思えたならさ。それは、あの子との時間が、ちゃんと今も生きてるってことじゃないかな」
胸の奥で、何かがほどける。
罪だったものが、愛だった記憶へと、少しずつ姿を変えていく。
「・・・私、どうしたらいい?」
その問いは、過去にも、あの猫にも、そして自分自身にも向けられている。
夫は答えを急がない。
「一緒に考えよう」
彼女は、夫の胸に顔を埋めて泣いた。
今度は、孤独ではない涙だった。
窓の外で、夜風が鳴る。
遠くで、猫の声がした。
それが現実か、記憶かはわからない。
けれど彼女は初めて思う。
あのぬくもりは、失ったのではなく、ずっと、自分の中にあったのかもしれない、と。
・・・
数日後、二人はもう一度猫カフェを訪れた。
彼女は、前よりも落ち着いた足取りで扉を押す。
あの猫は、今日は棚の上で丸くなっていた。
店員が微笑む。
「最近やっと、人の膝に乗るようになったんです。去年の冬に保護された子で、外にいた時間が長くて・・・人を信じるのに時間がかかって」
彼女は、その言葉を静かに聞く。
去年の冬。
あの子とは、違う時間を生きてきた猫。
当然のことなのに、胸が少しだけ温かくなる。
彼女は猫の前にしゃがむ。
猫は目を細め、ゆっくりと近づいてきた。
けれど、今日は膝には乗らない。
彼女の手の匂いを嗅ぎ、くるりと向きを変えて、また棚へ戻っていく。
その後ろ姿を見つめながら、彼女は不思議と微笑んでいた。
——この子は、この子なんだ。
あの子ではない。
やり直しではない。
それでもいい、と初めて思えた。
彼女は立ち上がり、店員に言う。
「この子、きっと幸せになりますね」
「ええ。きっと」
夫が隣で、そっと彼女の手に触れる。
彼女は小さく息を吸い、猫に向かって囁く。
「ありがとう」
それは、目の前の猫に。
そして、あの寒い夜、布団の中で丸くなった小さな命に。
さらに、ずっと自分を責め続けてきた、過去の自分にも。
店を出ると、午後の光がやわらかく差していた。
帰り道、彼女は言う。
「私ね、あの子をちゃんと愛してた」
夫はうなずく。
「うん」
「迎えに行けなかったけど・・・でも、愛してた」
涙は出なかった。
その代わり、胸の奥に、小さな灯りがともる。
消えないけれど、もう燃え上がらない灯り。
後悔は消えない。
でも、それは罰ではなく、愛していた証として、そこにある。
家に着くころ、彼女は空を見上げる。
どこかで猫が鳴いた気がした。
振り返らない。
ただ、胸の奥でそっと答える。
——もう大丈夫。
夫の隣を歩きながら、彼女は思う。
失ったものは戻らない。
でも、愛した記憶は、なくならない。
それだけで、少しだけ、前を向ける。
静かな灯りを胸に抱いて。




