第8話 はじまりの足音 恋をやり直す夜
五十五歳になってから、家の音がやけに響くようになった。
息子が独立して三年。
二人暮らしになった家は、きれいすぎるほど整っている。
食卓には向かい合って座る。
会話はある。
「味噌汁、少し薄いかな」
「そう?」
それだけ。
喧嘩はしない。
怒鳴ることもない。
だが、笑いも少ない。
若い頃は、狭いアパートで肩が触れ合うたびに照れた。
夜中にラーメンを食べに行くとき、廊下を小走りする妻の足音が軽く弾んでいた。
コツ、コツ、コツ。
あの足音が好きだった。
いつからだろう。
同じ家にいても、妻の足音を意識しなくなったのは。
彼は仕事に追われ、妻は家庭を守り、
子どもを中心に回っていた時間は、確かに温かかった。
だが子どもが巣立つと、二人は急に“役割”を失った。
夫婦である前に、父と母だった時間が長すぎたのかもしれない。
夜、寝室に入る前、リビングの電気を消す。
「おやすみ」
「うん」
声は届く。だが、どこか遠い。
同じ家にいるのに、同じ時間を過ごしていないような感覚。
それが、彼の胸に小さな空白を作っていた。
・・・その夜、彼は水を飲もうと廊下に出た。
時計は午前一時。
家は静まり返っている。
冷蔵庫の低い音だけが、遠くで鳴っている。
一歩、足を踏み出したときだった。
コツ。
思わず立ち止まる。
自分の足音ではない。
もう一度。
コツ、・・コツ。
廊下の奥から、誰かが歩いてくるような音。
妻は寝室にいるはずだ。
さっき、布団に入る気配を感じた。
息を止める。
足音は、軽い。
若い頃の、あのテンポ。
胸が、妙にざわつく。
コツ、コツ。
距離が縮まる気がする。
「・・・?」
声を出そうとして、喉が乾く。
足音は彼のすぐ後ろで止まった。
振り向く。
誰もいない。
廊下の白い壁だけが、静かに立っている。
だが確かに聞こえた。
あれは――
あの頃の、妻の足音だった。
彼はその場にしばらく立ち尽くす。
胸の奥に、忘れていた映像がよみがえる。
引っ越したばかりのアパート。
まだ家具も少なくて、廊下を歩くと音がよく響いた。
妻が台所から顔を出して、笑いながら言った。
「足音で帰ってきたってわかるね」
あのとき、彼は照れながら言った。
「そりゃ毎日一緒にいるからな」
その声の温度を、思い出せない。
廊下の闇は、何も答えない。
だが彼の耳には、確かにあの軽い足音が残っていた。
コツ、コツ、コツ。
まるで、何かを思い出せと言うように。
・・・足音を聞いた夜から、三日が過ぎた。
あれは空耳だったのだと、彼は自分に言い聞かせた。
疲れているのだろう、と。
だが、違和感は別の形で現れた。
朝食の席で、妻が味噌汁をかき混ぜながら言った。
「今日、駅前のパン屋、まだあるかな」
彼は新聞から顔を上げる。
「パン屋? 三年前に閉まったよ」
妻は首を傾げる。
「え? この前、あなたと行ったじゃない」
胸の奥が、かすかに冷える。
「それ、ずいぶん前だろ」
妻は笑った。
「あれ? そうだった?」
笑い方は自然だ。けれど、その目が少しだけ遠い。
その日の夜、彼は再び足音を聞いた。
今度ははっきりと。
コツ、コツ、コツ。
廊下を、軽やかに。
寝室から出てくる音だ。
彼は急いでドアを開ける。
妻は布団の中で、静かに眠っている。
音は止んでいる。
彼は立ち尽くす。
耳鳴りのように、あのテンポだけが残る。
翌週、妻は洗濯物を畳みながら言った。
「ねえ、あなたの作業着、どこに干せばいい?」
彼は動きを止める。
「・・・俺、もう現場には出てないよ」
三年前、管理職になってからスーツ通勤だ。
妻は驚いた顔をする。
「そうだっけ?」
その驚きは、本物のようだった。
彼は初めて、はっきりと不安を覚える。
夜、台所で妻が包丁を握ったまま立ち尽くしているのを見た。
「どうした?」
声をかけると、妻は振り向く。
「・・・これ、何を作るつもりだったんだっけ」
まな板の上には、切りかけの玉ねぎ。
涙は出ていない。
代わりに、戸惑いが滲んでいる。
彼はそっと包丁を受け取る。
「カレーだろ。昨日言ってた」
妻は小さく笑う。
「そうだった。最近、ぼんやりするの」
ぼんやり。
その言葉が、やけに重い。
その夜、足音はもっと近くで鳴った。
コツ、コツ。
彼の背後ではなく、彼の前を横切るように。
廊下の端から端へ。
彼は目を凝らす。
一瞬、白いワンピースの裾が揺れた気がした。
二十五歳の頃、妻がよく着ていた服だ。
次の瞬間、何もない。
代わりに、寝室のドアが静かに開く。
妻が立っている。
「ねえ」
声が、少しだけ若い。
「ここ、どこ?」
彼の喉が凍る。
「・・・家だよ」
「家?」
妻はゆっくり周囲を見回す。
壁の時計、廊下の写真立て、観葉植物。
やがて彼を見つめる。
「あなた・・・」
間が空く。彼は、その数秒が永遠に感じられる。
「あなた、誰?」
世界が、音を失う。
遠くで冷蔵庫のモーターが鳴っている。
それだけが、現実を繋いでいる。
彼は答えられない。
胸の奥にあった小さな空白が、一気に広がる。
妻は困ったように笑う。
「ごめんなさい。変なこと聞いて」
そう言って、自分の額に手を当てる。
「最近、夢とごちゃごちゃになるの」
彼はゆっくり息を吸う。
「・・・明日、病院に行こう」
妻は素直にうなずく。
だがその横顔は、どこか若い。
まるで、まだ未来を信じていた頃の顔。
その夜。
彼は廊下に立つ。
暗闇の中で、耳を澄ます。
コツ、コツ、コツ。
今度ははっきり、彼に向かってくる。
そして、彼の前で止まる。
見えないはずの誰かが、
まっすぐ彼を見上げている気がする。
——思い出せ。
そんな気配。彼の胸が締めつけられる。
足音は、消えない。それは不気味というより、切実だった。
まるで、失いかけている何かを取り戻せと告げるように。
・・・翌朝、二人は近くの総合病院を訪れた。
受付で症状を伝えると、脳神経内科を案内された。
待合室には高齢の患者が多い。
妻はその中で少し居心地が悪そうに背筋を伸ばしている。
「大げさだよ」
小声で言う。
「最近、寝不足なだけ」
彼はうなずくが、指先は冷たい。
診察室に呼ばれる。
白衣の医師は穏やかな声で尋ねた。
「最近、物忘れが増えましたか?」
妻は笑う。
「年齢のせいですよね」
医師は簡単な質問を始める。
「今日は何年何月何日ですか?」
妻は答える。
年は正しい。月も。
だが日付が三日ずれている。
「ここはどこですか?」
「中央病院」
それは正解だ。
医師は紙を一枚出す。
「これから三つの言葉を言います。あとで聞きますので覚えてくださいね。
“さくら”“電車”“猫”」
妻は繰り返す。
少し照れたように。
そのあと、簡単な計算。
100から7を引く。
「93」
「では、そこから7を引くと?」
沈黙。
「・・86?」
彼は目を伏せる。
検査は続いた。
時計の絵を描く課題。
指定された時刻に針を合わせる。
数字の並びが少しだけ歪む。
診察室を出る頃、
彼の胸は重く沈んでいた。
その日の午後、MRI検査を受けた。
白い筒の中へ吸い込まれていく妻を見送りながら、彼は何もできない自分を噛みしめる。
機械音が規則的に響く。
まるで、あの足音のように。
コツ、コツ、コツ。
・・・一週間後、結果を聞きに行く。
医師は画像を指し示す。
「海馬という、記憶を司る部分があります」
モニターに映る脳の断面。
「ここに、軽度の萎縮が見られます」
言葉は柔らかいが、意味は重い。
「現時点では軽度認知障害、いわゆるMCIの段階です」
妻は黙って聞いている。
「すぐに日常生活ができなくなるわけではありません。ただ——」
医師は続ける。
「新しい記憶から影響を受けやすい。
一方で、昔の記憶は比較的保たれることが多い」
彼の胸に、あの夜の言葉が蘇る。
「あなた、誰?」
若い頃の記憶だけが、鮮明に残る可能性。
妻が小さく言う。
「治りますか?」
医師は少し間を置く。
「進行を遅らせることはできます。
生活習慣、会話、刺激。
ご家族との関わりがとても大切です」
“関わり”。
その言葉が、胸に刺さる・・・。
帰り道、二人は並んで歩く。
冬の風が少し冷たい。
妻は不思議そうに空を見上げる。
「なんだか、懐かしい感じがするの」
「何が?」
「あなたと、こうして並んで歩くの」
彼は答えられない。
家に着き、靴を脱ぐ。
そのとき。
コツ、コツ、コツ。
廊下の奥から、軽やかな足音。
今度ははっきりと、若い頃のリズム。
彼は目を閉じる。
あれは恐怖ではない。
消えかけている記憶が、形を変えて歩いている音だ。
——まだ間に合う。
そんな気がした。
寝室へ向かう妻の背中が、ほんの少し小さく見える。
彼はその後ろ姿を見つめながら思う。
もし彼女の時間が後ろへ戻るのなら、自分も戻ればいい。
もう一度、最初から・・・。
廊下に、あの足音が重なる。
コツ、コツ。
それは不穏というより、問いかけのようだった。
あなたは、この人を、どう愛し直しますか・・・。
・・・診断から数日後。
妻は、ときどき彼を「知らない人」の目で見るようになった。
だが不思議なことに、二十代の頃の話になると、よく笑った。
「ねえ、あなた」
ある夜、妻が言った。
「私、昔、すごく狭いアパートに住んでた気がするの」
彼は心臓が跳ねるのを感じる。
「駅から五分の、二階建ての」
「・・・ああ」
「台所がすごく狭くて、二人立つとぶつかるの」
妻はくすくす笑う。
その笑い方は、二十五歳の彼女そのものだった。
「そこにね」
妻は続ける。
「好きな人がいたの」
胸が締めつけられる。
「無口で、ちょっと不器用で」
彼は苦笑する。
「でもね」
妻は首を傾げる。
「足音で帰ってきたって、すぐわかったの」
彼は息をのむ。
「コツ、コツ、って。少し重たい歩き方」
「・・・そうか」
「その音を聞くとね、安心したの」
彼は立ち上がる。廊下へ出る。
静かな夜。
彼は深呼吸をして、歩き出す。
コツ。
わざと、少しだけ強く踏み出す。
コツ、コツ。
ゆっくりと、あの頃のテンポを思い出しながら。
寝室の前で立ち止まる。
中から、かすかな笑い声。
「その歩き方」
ドアの向こうから、妻の声。
「好きだったの」
彼は思わず笑う。
ドアを開ける。
妻はベッドに腰かけている。
少し照れたように。
「ねえ」
妻が言う。
「あなた、名前は?」
彼は一瞬、迷う。
だがすぐに答える。
「健一」
「健一さん」
妻はその名前を転がすように言う。
「私のこと、好きだった?」
まっすぐな目。
二十五歳の、あの目。
彼はベッドの端に座る。
「今も好きだよ」
言葉にした瞬間、胸の奥が温かくなる。
何十年も言ってこなかった言葉。
妻は驚いたように目を見開く。
それから、少し頬を赤らめる。
「変なの」
「何が?」
「そんな顔して言う人だったっけ」
彼は照れくさく笑う。
「年取ったからな」
妻は首を振る。
「ううん。優しくなった」
沈黙が落ちる。
だがそれは、空白ではない。
静かな、満ちた沈黙。
妻がそっと彼の手に触れる。
「ねえ、健一さん」
「うん」
「これからも、足音、聞かせて」
彼は強くうなずく。
「毎日でも」
その夜、廊下を歩く音はひとつだけだった。
コツ、コツ。
だが彼の胸の中では、
もうひとつの足音が重なっている。
若い妻が、小走りで笑いながら追いかけてくる。
時間は戻らない。
病も消えない。
それでも——
彼は知っている。
もし彼女の記憶が後ろへ歩くのなら、自分は何度でも出会い直せばいい。
明日も。
明後日も。
最初の一歩から。
コツ、コツ、コツ。
その足音は、もう不穏ではない。
二人の、はじまりの音だった。




