表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
また会うために  作者: かーすけ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

7/21

第7話 会えなかった子ども 愛し足りなかった想い

予定日だった。


カレンダーには何も印をつけていない。

けれど身体が覚えている。


朝、目が覚めた瞬間に、胸の奥が重い。

理由はわかっているのに、考えないふりをする。


四十歳になった彼女は、布団の中で静かに天井を見つめた。


隣で夫が寝返りを打つ。

その気配が、少し遠い。


三年前の今日、彼女は入院していた。

点滴の滴る音を数えながら、お腹に向かって何度も「大丈夫」と話しかけていた。


大丈夫じゃなかった。


医師の説明は淡々としていた。

「よくあることです」

「お母さんのせいではありません」


その言葉は正しい。

でも、心は納得しない。


“よくあること”で片付けられるほど、

あの子は軽くなかった。


キッチンでコーヒーを淹れる。


夫が起きてくる。


「早いね」


「うん」


短い会話。


優しさはある。

でも、互いに踏み込まない。


あの日以来、二人は喧嘩をしていない。

怒鳴り合うほどの余裕がなかった。


夫は前を向こうとする。


「また考えよう」

「無理しなくていいけど」


その“前”が、彼女には遠い。


置いていかれるような感覚がある。


でも、夫もまた、夜中にこっそりスマートフォンで

赤ちゃんの写真を見ていることを、彼女は知っている。


同じ痛みなのに、抱え方が違う。


それが、少し寂しい。


押し入れの奥に小さな箱がある。


今日は、それを取り出した。


埃を払う。


蓋を開ける。


小さな靴下。

母子手帳。

エコー写真。


白黒の小さな影。


あのときは確かに、心臓が動いていた。


指で写真をなぞる。


自然と、お腹に手がいく。


三年経っても、癖は抜けない。


あの子の名前は、決めていた。


でも一度も声に出していない。


呼んでしまったら、

本当に“いなくなった存在”になる気がしたから。


呼ばなければ、

どこかにまだ、可能性として漂っている気がした。


・・・夜。


夫は何も言わず、隣に横になった。


「今日さ」


彼女が口を開く。


夫は静かに待つ。


「予定日だったんだ」


わかっていたはずなのに、

夫のまぶたがわずかに震える。


「・・・うん」


沈黙。


しばらくして、夫が言う。


「ごめん」


彼女は首を振る。


「あなたのせいじゃない」


「でも、守れなかった」


その言葉に、彼女ははっとする。


守れなかったと思っていたのは、自分だけじゃなかった。


二人とも、同じ場所に立っていたのだ。


でも、互いにそれを見せなかった。


見せたら、崩れてしまいそうだったから。


彼女は夫の手を握る。


三年ぶりかもしれないと思う。


あの子の話題で、触れたのは。


「私、名前を呼べないでいた」


夫が息を止める。


「・・・知ってる」


「呼んだら、いなくなる気がして」


夫は目を閉じる。


「俺は、呼べなかった」


「どうして?」


「呼んだら、現実になるから」


同じ理由だった。


少しだけ、笑う。


涙で滲んだまま。


・・・


その夜、彼女は深い眠りに落ちた。


目を開けると、白い場所に立っている。


病室の白ではない。

もっと柔らかい、朝靄のような光。


足元は温かい。

春の土の匂いがする。


遠くに、小さな背中が見える。


少年だ。


十歳くらい。


振り向いた瞬間、胸が詰まる。


目元は夫に似ている。

笑うと、自分だ。


「ママ」


声は澄んでいて、でもどこか懐かしい。


彼女は一歩も動けない。


「・・・ごめんね」


最初に出た言葉は、それだった。


「もっと気をつけていればよかった」


「冷やさなければ」


「仕事を休めば」


止まらない。


あの日から、何百回も繰り返してきた言い訳と後悔。


少年は黙って聞いている。


責めない。


慰めない。


ただ、まっすぐ見ている。


その目に、彼女は気づく。


——この子は、責任を探しに来たんじゃない。


「ママ」


少年が近づく。


距離が縮まるたび、

胸の奥の固い塊が軋む。


「ぼく、苦しくなかったよ」


彼女の呼吸が止まる。


「ほんとに?」


「うん。あったかかった」


小さな手が、彼女のお腹に触れる。


三年前と同じ場所。


「ここ、好きだった」


涙がこぼれる。


「でも、外の世界、見せてあげられなかった」


少年は首を傾げる。


「見てたよ」


「え?」


「ママが笑ってるとき、ちょっと光が入ってきた」


彼女は思い出す。


妊娠がわかった日、

こっそり買った小さなベビー服。


夫と未来の話をして、笑った夜。


「あれ、ぼくの景色だった」


彼女の膝が崩れる。


少年が支える。


軽いはずなのに、確かな重みがある。


「短かったけど」


少年は続ける。


「ちゃんと、生きたよ」


その言葉が、胸を打つ。


“生きられなかった子”ではなく、

“短く生きた子”。


意味が、まるで違う。


彼女は震える声で言う。


「陽」


初めて、迷いなく。


空気が震える。


少年の輪郭が、少しだけはっきりする。


「うん」


「ずっと呼びたかった」


「聞いてたよ」


「え?」


「声に出さなくても」


彼女は息を飲む。


「でもね」


少年が真剣な顔になる。


「ママ、自分のこと、ずっと罰してた」


その言葉に、胸の奥が刺される。


「だって……」


「ぼくは、罰じゃない」


はっきりとした声。


「ママの失敗じゃない」


涙で視界が歪む。


少年が彼女の頬に触れる。


温かい。


「ぼくが来たこと、悲しいことにしないで」


その瞬間、彼女の中で何かが崩れる。


あの子の存在を、

“傷”として抱えてきた。


でも本当は、


愛だった。


「陽、ありがとう」


声が震える。


「生まれてきてくれて」


少年は笑う。


太陽みたいに。


「うん。楽しかったよ」


「何が?」


「ママの中にいた時間」


静かな光が広がる。


「パパの声も聞こえてた」


彼女は驚く。


「パパ、泣いてたよ」


少年が少し誇らしげに言う。


「ぼく、ちゃんと愛されてた」


彼女はようやく理解する。


守れなかった命ではなく、

守られていた命だったのだと。


少年が少しずつ遠ざかる。


「もう行くね」


「どこへ?」


「ママが歩く場所の、ちょっと前」


彼女は泣きながら笑う。


「また会える?」


少年は少し考える。


「ママが自分を大事にしたら、いつでも」


光が強くなる。


「陽!」


彼女が叫ぶ。


少年は最後に言う。


「ママ、ありがとう」


目が覚める。


胸が、痛い。


でも、あの重さとは違う。


涙は流れているのに、呼吸が楽だ。


彼女はお腹に手を当てる。


「陽」


今度は、ちゃんと声に出して。


部屋の空気がやわらかく揺れた気がした。


・・・


朝。


目が覚めると、涙の跡が乾いている。


隣で夫が目を開ける。


「・・・夢、見た」


彼女が言う。


夫は静かに頷く。


「俺も」


「陽、って呼んだ」


夫の目に涙が浮かぶ。


「俺も」


二人は初めて、その名前を同時に口にする。


「陽」


部屋の空気が、やわらかく震える。


消えない痛みはある。


でも、それはもう、

責めるための痛みではない。


存在の証としての痛みだ。


彼女は箱を棚の上に置く。


隠さない。


忘れない。


でも、閉じ込めない。


夫が言う。


「今日、散歩しようか」


彼女は頷く。


外は春の光。


空白は消えない。


けれど、


会えなかった子どもは、

確かにいた。


そして、確かに愛されていた。


二人は並んで歩き出す。


手を繋いで。


今度は、同じ速度で。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ