第6話 母の声 味噌汁の匂い
冷蔵庫を開けると、味噌の匂いがする気がした。
・・・もう半年も経っているのに。
もちろん何もない。
あるのはコンビニのサラダと、炭酸水と、使いかけのドレッシング。
それでも、ときどき、あの匂いがする。
「ちゃんと食べてる?」
声まで、聞こえた気がして。
彼女は乱暴にドアを閉める。
——食べてるよ。
言い返す相手は、もういない。
・・・母が倒れたと連絡を受けたとき、彼女は会議室にいた。
大型案件のプレゼン前日。
チームを率いる立場。
携帯の画面に表示された、地元の病院の番号。
嫌な予感はした。
でも。
「明日の午後なら帰れます」
そう言った。
母はその日の夜、息を引き取った。
最期の言葉は聞いていない。
ただ、留守電が残っていた。
“忙しいだろうけど、無理しないでね”
それだけ。
責める言葉は、ひとつもなかった。
それが、いちばんつらい。
怒ってくれたほうが、どれだけ楽だったか。
・・・雨の日だった。
打ち合わせ帰りの夕方。
駅前の信号で立ち止まっていると、小さな手にコートの裾を引かれた。
「ねえ」
振り向く。
六歳くらいの女の子。
見知らぬ子。
なのに。
「ちゃんと食べてる?」
息が止まる。
雨の音が遠くなる。
その言い方。
語尾の上がり方。
少し鼻にかかった声。
「・・・なんで」
喉が震える。
少女は首を傾げる。
「なんでって?」
無邪気な顔。
でも、その目の奥が、やわらかい。
「夜更かししてるでしょ」
図星だった。
「野菜、食べなさい」
涙が滲む。
「頑張りすぎるんだから」
もう、立っていられない。
彼女はその場にしゃがみ込む。
雨でスカートが濡れるのも気にならない。
「ごめんね」
口からこぼれた。
「最期に、行けなくて、ごめん」
声が崩れる。
六歳の少女は、少し困ったように笑う。
「何が?」
「私、仕事を優先して・・・」
言葉が続かない。
「お母さん、怒ってた?」
少女は小さく首を振る。
「怒るわけないじゃない」
その一言で、堤防が決壊する。
「だって、あんたはあんたの人生を生きてるんだから」
雨と涙で視界が歪む。
「会いたかったよ」
本音があふれる。
「もっと話したかった」
「もっと、ありがとうって言いたかった」
少女は静かに聞いている。
まるでずっと待っていたみたいに。
「ありがとう、って言えなかった」
彼女は嗚咽の中で言う。
少女は一歩近づいて、小さな手で彼女の頬に触れた。
あたたかい。
「聞いてるよ」
それは、母の声だった。
はっきりと。
確かに。
「ちゃんと届いてる」
胸の奥の固い塊が、ゆっくり溶けていく。
赦された、のだとわかる。
母に。
そして、自分に。
「ゆいー?」
遠くから女性の声がする。
少女が振り向く。
「はーい!」
その瞬間、ただの子どもの顔になる。
彼女を見ても、もう何も知らない目。
母親らしき人に手を引かれ、少女は去っていく。
振り返らない。
雨は、いつのまにか止んでいる。
その夜。
彼女はスーパーで野菜を買った。
味噌も。
家に帰り、ぎこちない手つきで出汁を取る。
母のレシピノートを開く。
丸い字。
「味はみながら調整」
曖昧で、やさしい。
湯気が立つ。
一口、飲む。
しょっぱい。
少しだけ。
でも、涙で味がわからない。
「ちゃんと食べるよ」
誰もいないキッチンで呟く。
今度は、言い訳じゃない。
宣言だ。
彼女は初めて、留守電を消す。
繰り返し聞かなくてもいい。
あの声は、もう胸の中にある。
窓の外、夜が静かに深まる。
母はもういない。
でも。
愛は、置いていかれていなかった。
彼女はゆっくり息を吸う。
生きていく。
自分の人生を。
ちゃんと食べて。
ちゃんと泣いて。
ちゃんと笑って。
それが、いちばんの親孝行だと、やっと思えた。




