第4話 足音の記憶 懐中時計
夕暮れの商店街は、昼間よりも静かに見える。
シャッターの半分下りた店先。
揚げ物の匂い。
遠くで鳴る自転車のベル。
茜は、部活帰りのまま、ひとりで歩いていた。
こつ、こつ。
ローファーの音が、石畳に乾いて響く。
特別な一日ではなかった。
テストもない。
友達とも普通に笑った。
それなのに、夕方になると胸の奥が少し空っぽになる。
理由は、思いつかない。
両親は仲がいい。
家に帰れば温かいごはんがある。
スマホを開けば、友達のメッセージも届いている。
なのに。
こつ、こつ。
足音を聞くたび、
自分が“ひとりで歩いている”ことを強く意識してしまう。
ふと、立ち止まる。
背後に、もう一つの足音があったような気がした。
こつ、……こつ。
振り返る。
誰もいない。
商店街の通りはまっすぐで、
隠れる場所もない。
「……変なの」
小さく呟くと、声が思ったよりもかすれていた。
最近、ときどき夢を見る。
誰かの背中を追いかけている夢。
顔は見えない。
ただ、一定のリズムで歩く背中。
必死で追いかけても、
少しだけ距離が縮まらない。
目が覚めると、
胸がじんわりと痛む。
失った記憶があるわけじゃない。
誰かを亡くしたわけでもない。
それなのに、
“何かを置いてきた”ような感覚がある。
こつ、こつ。
再び歩き出す。
石畳の音が、今日は少し重い。
夕焼けが、建物の壁を赤く染める。
商店街の古本屋の前を通りかかったとき、
胸の奥が、なぜかきゅっと縮んだ。
理由はわからない。
ただ、その店先の空気が、
懐かしい匂いを含んでいる気がした。
インクと紙の匂い。
乾いた木の棚の匂い。
茜は本が特別好きなわけではない。
けれど、その匂いに触れた瞬間、
涙が出そうになる。
「……なんで」
自分で自分がわからない。
寂しい。
でも、誰がいないのかは言えない。
その空白は、名前を持たない。
こつ。
足音が、ほんの一瞬だけ、
自分の歩幅と合わない気がした。
誰かが、隣にいるような。
怖くはない。
むしろ、あたたかい。
けれど、そのあたたかさが、
余計に胸を締めつける。
夕暮れの空は、
ゆっくりと紫に変わっていく。
茜は深く息を吸う。
理由はわからないまま、
ただ、少しだけ涙がにじむ。
そしてまた、歩き出す。
こつ、こつ。
足音だけが、
確かにそこにあった。
・・・古本屋の前で、茜は足を止めた。
引き戸は半分開いていて、
店内は夕闇に沈みかけている。
紙の匂いが、外まで流れている。
こつ。
一歩、店の前へ。
そのときだった。
ざり。
背後で、砂を踏む音がした。
石畳ではなく、
乾いた砂利のような、低い音。
茜の背筋が、わずかに震える。
振り向く。
ひとりの老人が立っていた。
背は高くない。
灰色の帽子。
少し古びたコート。
けれど、その目だけが、
まっすぐに茜を見つめていた。
ざり。
老人が一歩近づく。
その足音が、胸の奥で何かに触れる。
懐かしい。
そう思った瞬間、自分で驚く。
会ったことなんて、ない。
はずなのに。
老人の唇が、かすかに動く。
「……やっと」
その声は、ひどく小さかった。
風にほどける寸前の糸のように、細い。
茜の心臓が強く打つ。
なぜか、泣きそうになる。
理由がわからないまま、
目の奥が熱くなる。
老人は、はっとしたように目を伏せる。
「ごめんね。人違いだ」
そう言って、微笑んだ。
その微笑みは、
どこか寂しそうで、
どこか安心したようでもあった。
ざり。
老人が横を通り過ぎる。
その瞬間。
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。
思わず、声が出そうになる。
――待って。
でも、何を。
何を引き止めるのか、わからない。
茜は、唇を噛む。
こつ、こつ。
自分の足音が、急に遠く感じる。
代わりに、老人の足音が、
やけに鮮明に響く。
ざり、ざり。
そのリズムが、
なぜか自分の呼吸と合っている。
涙が、こぼれた。
理由は、やっぱりわからない。
「……なんで」
小さく呟く。
老人は、振り返らない。
ただ、商店街の角を曲がり、
夕暮れの向こうへ消えていく。
ざり。
最後の足音が、遠くで鳴る。
その音が消えたとき、
胸の奥にぽっかりと穴が開いたような感覚が残った。
会ったのは、ほんの数秒。
言葉も、ほとんど交わしていない。
それなのに。
まるで、
ずっと探していた人を、
もう一度失ったみたいだった。
茜は、その場に立ち尽くす。
古本屋の奥から、
ページをめくる音が聞こえる。
夕暮れが、完全に紫へと沈む。
こつ。
足が動く。
追いかけようか、と一瞬思う。
でも、動けない。
追いついたところで、
何を確かめればいいのか、わからない。
こつ、こつ。
自分の足音が戻ってくる。
けれどその奥に、
まだざり、と低い響きが残っている。
怖くはない。
ただ、深く、
胸が温かくて、痛い。
茜はゆっくり息を吸う。
そして、古本屋の引き戸に手をかけた。
なぜか、入らなければならない気がした。
理由はない。
ただ、その足音の続きが、
そこにあるような気がした。
・・・引き戸は、思ったより軽かった。
からり、と小さな音を立てて開く。
店内は薄暗く、
奥の電球だけがぼんやりと灯っている。
古本屋の棚は背が高く、
迷路みたいに通路が伸びていた。
紙の匂いが、少し強くなる。
茜はゆっくり歩く。
こつ。
床板が鳴る。
その音に、胸がざわつく。
違う。
さっきの音じゃない。
さっきのは、もっと低くて、
胸の奥に落ちるような音だった。
ざり。
思い出すだけで、
心臓が、ほんの少し速くなる。
「……いらっしゃい」
奥から声がした。
店主らしい男が、帳簿から顔を上げる。
茜は小さく会釈する。
そのとき。
視界の端で、何かが揺れた。
棚の隙間。
灰色。
帽子?
心臓が跳ねる。
茜は思わず、その通路へ足を向ける。
こつ、こつ。
歩くたびに、自分の足音が強調される。
違う。
違う。
探しているのは、この音じゃない。
通路の突き当たり。
誰もいない。
代わりに、一冊の本が、
床に落ちていた。
まるで、さっきまで誰かが持っていたみたいに。
茜はしゃがみ込む。
表紙に触れる。
ざらりとした手触り。
タイトルは、かすれて読みにくい。
『——回想録』
下の方に、小さな文字。
「再び会うために」
指先が止まる。
理由もなく、息が浅くなる。
ぱら、とページをめくる。
古い活字の並び。
けれど途中から、手書きの文字が混ざっている。
震えるような、でも丁寧な字。
――午前四時。
――あの足音で、目が覚める。
――きっと、また来てくれたのだと思う。
茜の視界が、わずかに揺れる。
“また”。
喉の奥が熱い。
知らない人の、知らない記憶。
なのに。
どうしてこんなに、懐かしいんだろう。
そのとき。
ざり。
ごく小さな音が、背後で鳴った。
心臓が止まりそうになる。
振り返る。
誰もいない。
棚が、静かに並んでいるだけ。
けれど、確かに聞こえた。
さっきと同じ音。
胸の奥に落ちる、低い響き。
「……いるの?」
思わず、声がこぼれる。
返事はない。
ただ、紙の匂いが、わずかに揺れた気がする。
茜はもう一度、本に目を落とす。
ページの端に、挟まれた紙片。
小さなメモ。
『足音が聞こえたら、
振り向かなくていい。
きっと、もう一度会えるから』
息が、止まる。
振り向かなくていい。
さっき、振り向いた。
そして、出会った。
偶然?
それとも——
ざり。
今度は、はっきりと。
すぐ後ろ。
茜の肩が強ばる。
でも、振り向かない。
なぜか、そのほうが正しい気がした。
ざり。
足音が、近づく。
胸の奥が、熱い。
怖くない。
泣きそうなだけだ。
ざり。
すぐ耳元まで来て、
そこで止まる。
空気が、ほんの少し温かい。
そして。
「……今度は、ちゃんと間に合った」
低い、かすかな声。
茜の瞳が、ゆっくりと揺れる。
意味はわからない。
でも。
なぜか、その言葉を、
ずっと待っていた気がした。
こつ。
今度は、自分の足音。
茜は静かに立ち上がる。
本を胸に抱く。
そして、ようやく振り向く。
そこには——
誰もいない。
ただ、通路の奥に、
灰色の帽子がひとつ、
棚にそっと置かれていた。
・・・目が覚めた。
暗い。
カーテンの隙間からも、光はない。
枕元の時計を見る。
午前四時。
喉が、からからに乾いている。
夢を見ていた気がする。
けれど、思い出せない。
ただ。
音だけが、残っている。
ざり。
胸の奥で、はっきりと鳴る。
現実ではない。
でも、確かに聞こえる。
茜は布団の中で、息を止める。
耳を澄ます。
……静かだ。
家族の寝息も、遠い車の音もない。
世界が、一瞬止まったみたいな時間。
ざり。
今度は、外から。
はっきりと。
家の前の道。
砂利を踏む、低い足音。
心臓が強く打つ。
怖い、とは思わない。
それよりも。
――来た。
なぜか、そう思う。
体が先に動く。
布団を抜け出す。
床の冷たさが、やけに鮮明だ。
カーテンに手をかける。
指先が震える。
開ける。
街灯の薄い光。
誰もいない。
……はずだった。
ざり。
もう一度。
今度は、視界の端。
電柱の影が、わずかに揺れる。
灰色。
帽子。
茜の呼吸が浅くなる。
窓ガラス越しに、影がこちらを向く。
顔は見えない。
でも。
わかる。
あの老人だ。
どうして。
どうやって。
疑問は浮かぶのに、
なぜか不思議ではない。
影が、一歩、前に出る。
ざり。
その音が、ガラスを通して胸に落ちる。
懐かしい。
その感情が、今度ははっきり形になる。
涙が、静かにあふれる。
老人の影が、ゆっくりと顔を上げる。
目が、合う。
距離はあるのに。
確かに、合った。
そして。
老人は、わずかに首を振る。
――まだだ。
声はない。
でも、そう言われた気がする。
ざり。
一歩、後ろへ下がる。
ざり。
さらに遠ざかる。
「待って」
今度は、声が出た。
窓を開ける。
冷たい空気が流れ込む。
外へ出ようとした瞬間。
目の前が、ぐらりと揺れた。
足元が消える。
落ちる。
暗闇へ。
ざり、ざり、ざり。
無数の足音が、重なる。
ひとつじゃない。
何度も。
何度も。
繰り返されてきたみたいに。
映像が、断片的に差し込む。
知らない街。
知らない服。
けれど、自分の視点。
誰かを待っている。
夜明け前。
午前四時。
ざり。
足音が聞こえる。
振り向く。
灰色の帽子。
そこで、途切れる。
目が覚める。
息が荒い。
部屋は静かだ。
時計は、午前四時七分。
七分しか、経っていない。
窓は閉まっている。
外に、誰もいない。
でも。
床に、ひとつ。
小さな砂粒が落ちている。
茜は、それを見つめる。
指先で触れる。
ざらり。
あの音と同じ感触。
夢じゃ、ない。
そう思った瞬間。
胸の奥で、何かが静かにほどけた。
怖くない。
ただ。
長い間、離れていた誰かが、
確かにこの世界にいる。
午前四時は、
偶然じゃない。
きっと。
“再会の時間”なのだ。
・・・夜は、静まり返っている。
時計の針が、午前四時を指す。
老人は、ゆっくりと目を開けた。
この時間になると、
胸の奥に、古傷のような痛みが走る。
季節に関係なく、
年齢に関係なく、
必ず同じ場所が疼く。
合図だ。
ざり。
砂利道を歩く。
この音だけは、変わらない。
街が変わっても。
家並みが変わっても。
彼女の名字が変わっても。
――名字。
老人は、薄く笑う。
最初に出会ったとき、
彼女は別の名前で呼ばれていた。
次に会ったときは、
まったく違う街で、
違う両親のもとにいた。
三度目は、
自分のほうが彼女より若かった。
それでも。
足音は、同じだった。
ざり。
立ち止まる。
二階の窓。
カーテンが揺れる。
ああ、と胸が震える。
今回も、同じ年頃だ。
十六。
いつも、そこからだ。
それより前に現れると、
彼女は自分を認識できない。
それより遅いと、
間に合わない。
何に。
答えは、まだ口にできない。
ざり。
一歩、前へ。
窓辺に影が立つ。
目が合う。
その瞬間。
彼女の右手が、無意識に胸元を押さえる。
そこに、今は何もない。
でも、昔はあった。
小さな銀の懐中時計。
――彼が贈ったもの。
戦火の中で、
彼女の鼓動と一緒に止まった。
老人の指先が、わずかに震える。
あのとき。
間に合わなかった。
だから、今も歩いている。
ざり。
彼女は、泣きそうな目でこちらを見る。
覚えていない。
でも、魂が疼いている。
それで十分だと、
何度も自分に言い聞かせた。
彼女の時間は、前へ進む。
自分の時間は、重なり続ける。
彼女は、毎回生まれ直す。
自分は、毎回同じ記憶を持ったまま。
それが、この再会の代償だ。
ざり。
一歩、下がる。
彼女が口を開く。
“待って”。
その言葉は、どの時代でも同じだ。
老人は、首を振る。
――まだだ。
今、すべてを思い出してしまえば、
彼女の今の人生が壊れてしまう。
それだけは、させない。
ざり。
角を曲がる。
姿が溶ける。
夜明けが近い。
次に会うとき、
彼女はまた違う名前かもしれない。
違う家族かもしれない。
それでも。
足音が届く限り。
午前四時が訪れる限り。
自分は歩く。
ざり。
そして彼は、
何度目かの再会を、
またひとつ数えないまま、待ち続ける。
・・・朝は、何事もなかったみたいに始まった。
目覚ましは六時三十分。
窓の外は、普通の朝。
午前四時の気配は、どこにもない。
……はずだった。
制服に着替えながら、
茜はふと胸元に触れる。
そこに何かを下げていた感触が、
まだ残っている。
指先が、空をつかむ。
何もない。
なのに、重みだけがある。
変だ。
昨日までは、こんな感覚はなかった。
そのとき、母の声が階下から響く。
「茜ー、これ、あんたのじゃない?」
階段を降りる。
ダイニングテーブルの上に、
小さな包みが置かれている。
古い布にくるまれたもの。
「ポストの前に落ちてたのよ。古そうだけど……」
茜の喉が、ひくりと鳴る。
ざらり。
指先が、布に触れる。
あの音と同じ感触。
ゆっくり、ほどく。
中から現れたのは、
小さな銀の懐中時計。
細い鎖がついている。
蓋の表面には、かすれた刻印。
触れた瞬間、
胸の奥が強く脈打つ。
知っている。
触ったことがある。
ずっと前に。
でも、思い出せない。
震える指で、蓋を開く。
かちり。
針は止まっている。
指している時刻は――
午前四時。
息が、止まる。
耳鳴りのように、
ざり、と音が響く。
遠い。
でも確かに。
茜の視界が、わずかに揺れる。
断片が、光る。
夜明け前の丘。
風に揺れる長い髪。
若い青年の笑顔。
手渡される、この時計。
「必ず、また会える。
この音でわかるから」
低い声。
優しい目。
胸が締めつけられる。
次の瞬間、すべてが静まる。
リビングの時計が、
普通に時を刻んでいる。
午前七時十分。
茜は、ゆっくり息を吸う。
懐中時計を、そっと胸元に当てる。
冷たい。
でも、少しずつ温もりが移る。
そのとき。
ちいさく。
かすかに。
ち、……ち。
止まっていたはずの針が、
一目盛りだけ、進む。
茜の瞳が、見開かれる。
次の瞬間。
ざり。
家の前の道。
はっきりとした足音。
朝の光の中で、
あの音だけが、異質に響く。
怖くない。
今度は、わかる。
これは、別れの音じゃない。
茜は、玄関へ向かう。
こつ、こつ。
自分の足音が重なる。
扉に手をかける。
一瞬、目を閉じる。
そして、開ける。
朝の光の中に、
灰色の帽子が立っている。
老人の姿。
でも、その目は。
若い。
懐かしい。
まるで、時間が追いついたみたいに。
ざり。
一歩、近づく。
「……今度は」
老人が、微笑む。
茜の胸元で、懐中時計が確かに動く。
ち、ち、ち。
止まらない。
時間は、もう止まらない。
茜は、涙をこぼしながら、笑う。
「うん。今度は、ちゃんと」
ざり。
二人の足音が、重なる。
朝日が、長い影を並べる。
午前四時は、終わった。
でも。
再会の時間は、
これから始まる。




