表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
また会うために  作者: かーすけ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/21

第3話 歩いているかぎり 再会の希望

朝六時の公園は、まだ世界の縁のように静かだ。


72歳の佐伯は、今日も同じ道を歩いている。

右手に杖。左手は、何も持たないまま少し浮いている。

昔はそこに、妻の手があった。


砂利道に足を下ろす。


ざり、ざり。


乾いた音が、胸の奥まで響く。


妻が亡くなって三年になる。

三年という数字は、思ったより何も癒やさなかった。


最初の一年は、悲しみが濃すぎて現実感がなかった。

二年目は、周囲が「もう大丈夫でしょう」と言い始めた。

三年目の今は、

誰も何も言わない。


ざり、ざり。


ふと、もうひとつ音が重なった気がした。


ざり、……ざり。


佐伯は立ち止まる。

振り返る。


誰もいない。


朝の光が、木々の間から斜めに差し込んでいるだけだ。


「……気のせいか」


そう言って歩き出すが、胸の奥がざわつく。

あの歩幅。

あの間。


妻は少しだけ自分より歩幅が狭く、

一歩遅れて、砂利を鳴らしていた。


ざり、ざり。


思い出すつもりはなかったのに、

記憶は勝手にほどける。


若い頃、図書館の廊下で初めて聞いた革靴の音。

式場の廊下で並んで歩いた硬いヒールの音。

病室の床をゆっくり進む、弱くなった足音。


最後の足音は、

ほとんど聞こえなかった。


佐伯は、思わず杖を強く握る。


「……まだ、いるのか」


自分でも驚くほど、声が震えていた。


風が吹く。

砂利がかすかに転がる。


そしてもう一度。


ざり。


確かに、重なった。


佐伯の胸の奥で、

何かがわずかにほどける。


会いたい、という言葉は口にしない。

言えば、崩れそうだからだ。


それでも足は止まらない。


ざり、ざり。


朝の公園に、二人分の足音が、

たしかに鳴っていた。


ざり、ざり。


歩きながら、佐伯は思い出していた。


妻――美津子と初めて会った日のことを。


それは、まだ彼が二十代の終わり、

地方の図書館に勤め始めたばかりの頃だった。


昼下がりの館内は静まり返っていて、

ページをめくる音さえ遠慮がちだった。


その中で、不意に聞こえた。


こつ、……こつ。


廊下を進む、規則正しいヒールの音。


当時の佐伯は、

妙にその音が気になった。


急いでもいない。

迷ってもいない。

ただ、まっすぐこちらへ向かってくる。


書架の影から現れたのが、美津子だった。


白いブラウスに、少し大きめの鞄。

真面目そうで、それでいて目がよく笑う人だった。


「すみません、この本を探しているんですが」


差し出された紙は、手書きで、少し震えていた。


あとから知ったことだが、

彼女はその日、

司書に話しかけるのに緊張していたらしい。


佐伯は、必要以上に丁寧に案内した。

本の場所までのわずかな距離を、

なぜかゆっくり歩いた。


こつ、こつ。


並んで歩くと、足音が少しだけずれる。

彼女のほうが、ほんのわずかに歩幅が小さい。


その違いが、妙に愛おしく思えた。


本を手渡したとき、

彼女はほっとしたように笑った。


「助かりました。……また来ます」


その言葉通り、彼女は何度も来た。


やがて本の話は、

天気の話になり、

仕事の愚痴になり、

未来の話になった。


結婚式の日、

式場の長い廊下を歩いた。


こん、こん。


少し高めのヒールの音が、

自分の革靴と重なった。


あの日、佐伯は胸の奥で思った。


この音を、

一生、隣で聞くのだと。


だが人生は、

約束を守るとは限らない。


病室の床は、やけに光沢があった。


こん、……こん。


弱くなった足音。

それでも彼女は自分で歩こうとした。


「まだ、歩けるから」


笑っていたが、

その声の奥に、かすかな恐れを佐伯は聞いていた。


最後の日、

足音はなかった。


機械の音だけが、静かに鳴っていた。


佐伯はそのとき、

何も言えなかった。


ありがとうも、

一緒にいられて幸せだったも。


ただ、手を握っていた。


ざり、ざり。


現在の砂利道に、意識が戻る。


あの頃の足音は、

もう聞こえないはずだ。


それなのに。


ざり。


かすかに重なる。


佐伯の胸が、静かに軋む。


「……まだ、そばにいるのか」


問いかける声は、風に溶ける。


会いたい。


その言葉が、喉元まで上がる。

けれど飲み込む。


もし本当に隣にいるのなら、

自分はどんな顔をしているだろう。


泣き顔では、

きっと叱られる。


美津子は、

泣くと必ず言った。


「ほら、前を向いて。歩くよ」


ざり、ざり。


佐伯は、背筋を少し伸ばす。


足音は、消えない。


消えないどころか、

思い出すたびに、

確かにそこにある。


胸の奥で、

切なさとあたたかさが、同時に揺れていた。



・・・その日も、佐伯は同じ時間に公園を歩いていた。


ざり、ざり。


重なるようで、重ならない足音。


美津子の気配は、

近づいたり、遠ざかったりする。


ふと、少し先のベンチのそばで、小さな影が揺れた。


女の子だった。

七つか八つくらいだろうか。

ランドセルを背負ったまま、うつむいている。


ざ、ざ。


運動靴が砂利を乱暴に鳴らす。


佐伯は、何気ない顔をして近づいた。


「どうした」


女の子は顔を上げない。


「……転んだ」


見ると、膝がすりむけている。

たいした傷ではないが、

その子は唇を噛みしめていた。


泣くまいとしているのが、わかった。


ざり。


佐伯の足が止まる。


その瞬間、

胸の奥で何かがひりついた。


美津子も、転んだとき、

いつもこうして黙っていた。


強がりで、

誰よりも泣き虫だった。


「痛いな」


佐伯は、自分のことのように言った。


女の子が、ちらりとこちらを見る。


その目の奥に、

見覚えのないはずの光があった。


「……じいじも、転んだことある?」


不意打ちの問いに、佐伯は少し笑う。


「何度もある」


「泣いた?」


「若いころはな。今は、泣きそびれてばかりだ」


女の子は、ふっと小さく笑った。


ざり、ざり。


二人の足元で、砂利が鳴る。


その音の奥に、

もう一つ、かすかな響きが混ざった気がした。


気のせいかもしれない。


けれど今度は、

胸が軋まなかった。


女の子が立ち上がる。


ざ、ざ。


少し乱れた足音。


「ありがとう」


小さな声。


その響きが、

遠い昔の図書館の廊下に重なる。


こつ、こつ。


佐伯は、息を飲む。


違う。


顔も、声も、まったく違う。


それなのに、

胸の奥に灯るものは、

あのときと同じ温度だった。


女の子は、手を振って走り去る。


ざ、ざ、ざ。


軽い足音が、朝の光の中へ溶けていく。


佐伯は、しばらく立ち尽くす。


ざり。


自分の足音が、また一つ鳴る。


重なっているのか、いないのか、

もう確かめようとは思わなかった。


代わりに、

胸の奥に、微かな変化がある。


会いたい、ではない。


ありがとう、でもない。


――まだ、歩ける。


そんな感覚だった。


ざり、ざり。


公園の出口へ向かう足取りが、

わずかに軽くなっている。


救いではない。


けれど、

風向きは、たしかに変わった・・・



・・・翌朝も、佐伯は公園にいた。


夜明け前の空は、まだ青と灰色のあいだで揺れている。

冬の終わりの空気は薄く、息が白く滲んだ。


ざり、ざり。


砂利道に足を下ろす。

同じ時間、同じ道。


三年前から、何も変わらない習慣。


変わらないはずなのに、

昨日から、胸の奥の重さがほんの少し違う。


ざり。


重なる気配は、今日はない。


いや、あるのかもしれないが、

確かめようとしなかった。


確かめるという行為は、

どこかで「証明」を求めることだ。

いるのか、いないのか。

聞こえるのか、聞こえないのか。


だが、美津子との三十七年は、

証明してきたものではなかった。


ただ、歩いてきただけだ。


こつ、こつ。


図書館の廊下で出会った日から。

式場の長い廊下を並んで進んだ日から。

狭いアパートの台所を、二人で行き来した夜から。

子どもができなかったことを、

静かに受け止め合った日の帰り道から。


足音は、いつも隣にあった。


佐伯は、ふと足を止める。


三年前の病室を思い出す。


白い天井。

規則的な機械の音。

ほとんど聞こえなくなっていた足音。


あの日、美津子は最後まで自分で歩こうとした。


「迷惑かけたくないの」


そう言って、少し怒ったように笑った。


迷惑なんて、と言い返したかった。

一緒にいることが迷惑になるわけがない、と。


けれど結局、

佐伯は何も言えなかった。


言葉は、思っているよりも遅い。


ざり。


今、砂利を踏む自分の足音は、

はっきりと響く。


自分はまだ、生きている。


その当たり前の事実が、

ときどき耐えがたいほど重かった。


なぜ自分だけが歩いているのか。

なぜあの足音だけが、止まったのか。


答えはない。


けれど昨日、公園で出会った女の子の顔が、

ふと浮かぶ。


唇を噛んで、

泣くまいと踏ん張っていた横顔。


「じいじも、転んだことある?」


あの問いは、不思議だった。


まるで、自分の弱さを

そっと見抜かれたようだった。


佐伯は、ゆっくり歩き出す。


ざり、ざり。


今日は、公園の奥まで足を伸ばしてみることにした。

美津子が好きだった花壇のほうへ。


春が近いせいか、

土の匂いが少し柔らいでいる。


花壇の前で、立ち止まる。


まだ芽は小さい。

けれど確かに、地面を押し上げている。


「……おまえは、すごいな」


誰に向けた言葉か、自分でもわからない。


芽にか。

それとも、美津子にか。


ざり。


背後で、砂利が鳴った。


振り向く。


昨日の女の子が立っていた。


今日はランドセルを背負っていない。

少しだけ笑っている。


「おはよう」


「……おはよう」


佐伯の声は、思ったより穏やかだった。


「きのう、ありがとう」


女の子は、そう言って、

ポケットから小さな包みを差し出す。


絆創膏の袋だった。

昨日、使わなかったものだろう。


「これ、余ったから」


「そうか」


受け取ると、指先がかすかに震えた。


小さな手の温度が、

胸の奥にじんわり広がる。


ざり、ざり。


女の子は、花壇の芽を見つめる。


「これ、何の花?」


「さあな。咲くまでわからん」


「ふうん。咲いたら、また見にくる」


その何気ない言葉に、

佐伯の胸が静かに波打つ。


咲くまで。


未来を前提にした言葉。


美津子と交わした約束は、

いつもそんなふうだった。


来年も行こう。

今度はあそこへ行こう。

老後は海の近くがいいな。


叶わなかった約束も多い。


けれど、それは嘘ではなかった。


歩いているあいだ、

未来を思い描いたことは、

たしかに生きていた証だ。


女の子が走り出す。


ざ、ざ、ざ。


軽い足音が、朝の空気を揺らす。


その向こうに、

もう一つの気配があるような、ないような。


佐伯は、目を閉じない。


探さない。


ただ、立っている。


ざり。


自分の足音が鳴る。


その音の奥で、

三十七年分の足音が、確かに重なっている。


消えていない。


止まっていない。


胸の奥で、

ふっと息がほどける。


会いたいという痛みは、まだある。

寂しさも、消えない。


けれどその奥に、

もう一つの感情が芽を出している。


――ありがとう。


ようやく、その言葉が胸の中で形をとる。


声には出さない。


けれど、確かにそこにある。


ざり、ざり。


佐伯は、花壇を離れ、

公園の出口へ向かう。


杖をつく手が、

ほんの少し軽い。


一人で歩いている。

それは事実だ。


だが、孤独ではない。


歩いているかぎり、

足音は鳴る。


足音が鳴るかぎり、

あの時間も、あの笑い声も、

完全には消えない。


公園の門をくぐる。


朝日が、まっすぐ差し込む。


ざり。


最後に一度、砂利が鳴る。


佐伯は、空を見上げる。


「……ほら、前を向いて。歩くよ」


どこからともなく聞こえた気がした言葉に、

小さく笑う。


そして、歩き出す。


ざり、ざり。


その足音は、

もう震えていなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ