エピローグ 星の降る夜に
十一月の山道は、暗かった。
倉田誠一は懐中電灯を片手に、細い山道をゆっくりと登った。
七十二歳の膝には、秋の夜気が応える。それでも足は止めなかった。
この道を歩くのは、もう四十年以上になる。目をつぶっても歩けるくらい、体が覚えていた。
天文台は、山の中腹にあった。
地方の小さな天文台で、白いドームが二つ、夜空の下にひっそりと並んでいる。
誠一はここで三十八年間働いた。観測助手として入り、台長として退いた。今は週に二、三度だけ、鍵を借りて一人で来る。誰かに頼まれているわけでもない。ただ、来たくなるのだ。
特に、今夜のような夜には。
澄子の命日だった。
三年前の十一月、澄子は眠るように逝った。
長い闘病の末だった。最後の夜、誠一が手を握っていると、澄子はかすかに笑って、それからゆっくりと目を閉じた。あの笑顔が、誠一にはまだ昨日のことのように思える。
天文台の重い扉を開けると、冷たい空気が流れ出てきた。
誠一は電気をつけた。蛍光灯の白い光が、丸いドームの内側を照らした。中央に大きな望遠鏡が据えられている。白と銀のボディが、静かに光を受けていた。
「澄子、来たよ」
誠一は小さく声に出した。
返事はなかった。でも誠一は気にしなかった。ここに来るたびに、そう言うことにしていた。三年間、ずっと。
ドームのスリットを開けると、夜空が現れた。
十一月の空は澄んでいた。雲一つなく、星が降り注ぐように瞬いていた。誠一は望遠鏡の接眼レンズに目を当て、ゆっくりと天球を動かした。
オリオン座が、東の空に昇り始めていた。
澄子が好きな星座だった。
「オリオンって、なんか頼もしいのよね」と澄子はよく言っていた。
「三つ星がまっすぐ並んでて、ちゃんとそこにいるって感じがして」。
天文の知識などまったくない人だったが、星を見るのが好きで、よく天文台に遊びに来た。誠一が観測をしている間、澄子は外のベンチに座って、コーヒーを飲みながら空を見上げていた。
その後ろ姿が、今も目に浮かぶ。
紺色のコートを着て、両手でカップを包んで、首を傾けながら空を見ている澄子。
時々「あ、流れた」と小さく声を上げて、誠一を呼ぶ澄子。
「あなたは見なかったの? 損したね」と笑う澄子。
誠一は望遠鏡から目を離し、椅子に腰を下ろした。
膝が痛んだ。最近、少し痛みが増していた。医者には「経過を見ましょう」と言われているが、誠一には「経過を見る」という言葉の意味がもうわかる年齢だった。
でも怖くなかった。
それが誠一には、少し不思議だった。怖いはずなのに、怖くない。
澄子が逝ってから、死というものが以前とは違う顔をして見えるようになっていた。
遠い壁ではなく、向こう側に続く扉のような。
誠一が天文台の本棚から一冊の本を取り出したのは、九時を過ぎた頃だった。
古い本だった。背表紙が色あせて、ページの端が黄ばんでいる。
タイトルは『宇宙と意識――量子論が示す新しい世界観』。
十年ほど前に読んで、天文台に置いたままになっていた。
誠一は特定のページを開いた。何度も読んだから、自然にそこが開く。
付箋が貼られていた。
澄子の字で「これ、好き」と書かれた付箋が。
澄子はこの本を読んで、そのページだけに付箋を貼った。難しい量子論の本を、澄子は最初から最後まで読んだわけではない。でもそのページだけは、「これ、好き」と言って付箋を貼った。
誠一はそのページを、声に出して読んだ。誰もいない天文台の中で、自分の声だけが丸いドームに響いた。
「この宇宙には、量子真空と呼ばれる場が遍く存在している。科学者たちはその場を『ゼロ・ポイント・フィールド』と呼ぶ。この場には、宇宙で起きたすべての出来事が、波動として記録されていると考えられている。あなたの愛した人の声も、笑顔も、共に過ごした時間のすべても——それらは消えることなく、波として宇宙に刻まれ、どこまでも広がり続けている」
誠一は本を閉じた。
難しい理論だった。完全に理解できると言えば嘘になる。
でも澄子が「これ、好き」と書いた気持ちは、わかった。
星の光と、同じだからだ。
望遠鏡で見える星の中には、すでに存在しないものがある。
何万光年も彼方で、もう燃え尽きてしまった星。それでもその光は、今夜もここに届いている。
消えた星の光が、何万年もかけて、確かにここまで届いている。
澄子がよく言っていた。
「星の光って、遠い過去からここに届くのね。消えた星の光でも、ちゃんと届くのね」
そう言いながら、夜空を見上げていた。
愛した人の声も、笑顔も、共に過ごした時間も——消えることなく、宇宙に刻まれ、どこまでも広がり続けている。
ならば澄子もそこにいるのだろうか。
三年前の十一月の夜、最後に見せたあの笑顔も、波として宇宙のどこかに広がっているのだろうか。
誠一が澄子の手を握っていた、あの夜の温もりも。
誠一は本棚に本を戻した。
付箋はそのままにした。
澄子の「これ、好き」という字が、色あせないうちは、そのままにしておこうと思った。
十時を過ぎた頃、誠一は胸に痛みを感じた。
最近よくある痛みだった。締め付けるような、じわりとした痛み。今夜は少し、強かった。
誠一は椅子に深く座り直して、ゆっくりと息を吸った。
大丈夫だ、と思った。でも同時に、大丈夫ではないかもしれない、とも思った。どちらの気持ちも、嘘ではなかった。
痛みが少し落ち着いてから、誠一は望遠鏡から離れて、ドームの床に直接座った。七十二歳の体には堪えたが、なぜかそうしたかった。床に座って、開いたスリットから見える夜空を、ただ見上げた。
星が、降り注ぐように瞬いていた。
オリオンが、真上に近い位置まで昇っていた。三つ星がまっすぐに並んで、夜空に刻まれていた。
誠一は三つ星を見ながら、澄子のことを思った。
コーヒーカップを両手で包んで、首を傾けながら空を見上げていた澄子。
「オリオンって、頼もしいのよね」と言っていた澄子。四十二年間、隣にいた澄子。
「澄子」
誠一は夜空に向かって、声に出した。
「もうすぐ行くよ。そっちへ」
声が、ドームの中に吸い込まれた。
返事はなかった。
でも誠一は、続けた。
「怖くないよ。お前のいるところへ行くんだから、怖くない。ただ、もう少しだけ、この星空を見ていたくてな」
風が吹いた。
山の夜の風が、ドームのスリットから入ってきて、誠一の頬を撫でた。冷たいはずの風が、なぜか温かく感じた。
それがいつ始まったのか、誠一にはわからなかった。
気がついたら、天文台の中の空気が、変わっていた。
温度ではない。光でもない。音でもない。ただ、何かが満ちてくるような感覚。潮が満ちるように、静かに、しかし確かに、空間の質が変わっていった。
誠一は床に座ったまま、動かなかった。
動けなかったのではない。動く必要を感じなかった。
体の痛みが、いつの間にか遠くなっていた。
胸の締め付けも、膝の疼きも、七十二年分の疲れも、すうっと引いていくような。
光が見えた。
望遠鏡の脇に、小さな光が生まれていた。
光源がどこにあるのかわからなかった。蛍光灯は消していない。でもその光は蛍光灯とは違う質を持っていた。もっと柔らかく、もっと温かく、もっと懐かしい光だった。
光は少しずつ、形を持ち始めた。
輪郭が生まれた。肩の線。首の傾き。後ろ姿。
誠一は息を止めた。
見覚えがあった。
四十二年間、見続けてきた後ろ姿だった。
紺色のコートを着て、首を少し傾けて、夜空を見上げている——澄子の後ろ姿だった。
「澄子」
声にならない声で、誠一は呼んだ。
光の中の澄子が、ゆっくりと振り返った。
顔が見えた。
しわも白髪も、病気で細くなった頬も——何もなかった。
ただ、澄子だった。誠一が初めて出会ったころの、若い澄子でもなかった。
四十二年間の時間を超えた、魂そのものの澄子だった。
目が、笑っていた。
あの目だった。誠一が一番好きだった、目の細くなる笑顔。
「お疲れ様でした」
澄子の声が、耳の奥に響いた。
声というより、温かさだった。
言葉というより、光だった。
でも誠一には、確かに聞こえた。四十二年間聞き続けた、あの声で。
「お疲れ様でした、誠一さん」
誠一の目から、涙が流れた。
泣くつもりはなかった。
でも止められなかった。
七十二年分の疲れが、その言葉一つで、ほどけていくような気がした。
よく頑張ったね、という言葉より深かった。
苦労したね、という言葉より温かかった。
ただ、「お疲れ様でした」。
その言葉の中に、四十二年分の二人の時間が、全部入っていた。
「澄子」
今度は声に出せた。
「会いたかったよ」
澄子の光が、少し揺れた。笑っているように見えた。
誠一は手を伸ばした。
光の中に、澄子の手があった。
誠一が四十二年間、何千回と握ってきた手。细くて、温かくて、少しだけ骨ばった手。
繋いだ。
温かかった。
星の光のような温かさだった。
何万光年も旅をしてきて、それでもまだ温かい、星の光のような。
誠一は立ち上がった。
不思議なことに、膝が痛まなかった。
体が軽かった。七十二年分の重さが、どこかへ行ってしまったような。
澄子が手を引いた。
ドームのスリットから見える夜空へ、向かうように。
誠一は歩いた。澄子の手を握ったまま、夜空へ向かって。
歩くというより、浮かぶように。進むというより、溶けていくように。
天文台の床が、遠くなった。
望遠鏡が、小さくなった。
ドームが、山が、街の灯りが、遠ざかっていった。
代わりに、星が近づいてきた。
オリオンの三つ星が、目の前に広がった。
こんなに大きかったのか、と誠一は思った。いや、大きいのではない。自分が星に近づいているのだ。宇宙の中に、溶け込んでいるのだ。
澄子が、隣で笑っていた。
「きれいでしょう」と澄子は言った。「こっちから見ると、もっときれいなのよ」
誠一は笑った。
四十二年間、変わらなかった。
澄子はいつでも、一番いいものを先に見つけて、誠一に教えてくれた。
「そうだな」と誠一は言った。
「お前と見ると、何でもきれいだ」
澄子の笑い声が、星の海に響いた。
二人の魂は、手を取り合ったまま、星の光の中へ、静かに、深く、溶け込んでいった。
翌朝、天文台の扉は内側から鍵がかかっていた。
心配した職員が開けると、中には誰もいなかった。
望遠鏡は、オリオン座の方角を向いたまま、静かに据えられていた。
床の中央に、古い本が一冊、置かれていた。
ページが開いたままで。
そのページには、色あせた付箋が一枚貼られていた。
小さな字で、「これ、好き」と書かれていた。
ドームのスリットは、まだ開いていた。
冬の朝の光が、そこから差し込んでいた。
光の中に、小さな塵が舞っていた。
まるで星のように、それぞれが輝きながら、漂っていた。
この宇宙に起きたすべての出来事は、消えることなく、波として、どこまでも広がり続けている。
愛した人の声も、笑顔も、共に過ごした時間も——すべては、宇宙の中に、永遠に、在り続ける。




