表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
また会うために  作者: かーすけ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

21/21

エピローグ 星の降る夜に

 十一月の山道は、暗かった。


 倉田誠一は懐中電灯を片手に、細い山道をゆっくりと登った。

 七十二歳の膝には、秋の夜気が応える。それでも足は止めなかった。

 この道を歩くのは、もう四十年以上になる。目をつぶっても歩けるくらい、体が覚えていた。


 天文台は、山の中腹にあった。

 地方の小さな天文台で、白いドームが二つ、夜空の下にひっそりと並んでいる。

 誠一はここで三十八年間働いた。観測助手として入り、台長として退いた。今は週に二、三度だけ、鍵を借りて一人で来る。誰かに頼まれているわけでもない。ただ、来たくなるのだ。

 特に、今夜のような夜には。


 澄子の命日だった。

 三年前の十一月、澄子は眠るように逝った。

 長い闘病の末だった。最後の夜、誠一が手を握っていると、澄子はかすかに笑って、それからゆっくりと目を閉じた。あの笑顔が、誠一にはまだ昨日のことのように思える。


 天文台の重い扉を開けると、冷たい空気が流れ出てきた。

 誠一は電気をつけた。蛍光灯の白い光が、丸いドームの内側を照らした。中央に大きな望遠鏡が据えられている。白と銀のボディが、静かに光を受けていた。


「澄子、来たよ」

 誠一は小さく声に出した。

 返事はなかった。でも誠一は気にしなかった。ここに来るたびに、そう言うことにしていた。三年間、ずっと。


 ドームのスリットを開けると、夜空が現れた。

 十一月の空は澄んでいた。雲一つなく、星が降り注ぐように瞬いていた。誠一は望遠鏡の接眼レンズに目を当て、ゆっくりと天球を動かした。

 オリオン座が、東の空に昇り始めていた。

 澄子が好きな星座だった。

「オリオンって、なんか頼もしいのよね」と澄子はよく言っていた。

「三つ星がまっすぐ並んでて、ちゃんとそこにいるって感じがして」。

 天文の知識などまったくない人だったが、星を見るのが好きで、よく天文台に遊びに来た。誠一が観測をしている間、澄子は外のベンチに座って、コーヒーを飲みながら空を見上げていた。

 その後ろ姿が、今も目に浮かぶ。

 紺色のコートを着て、両手でカップを包んで、首を傾けながら空を見ている澄子。

 時々「あ、流れた」と小さく声を上げて、誠一を呼ぶ澄子。

「あなたは見なかったの? 損したね」と笑う澄子。


 誠一は望遠鏡から目を離し、椅子に腰を下ろした。

 膝が痛んだ。最近、少し痛みが増していた。医者には「経過を見ましょう」と言われているが、誠一には「経過を見る」という言葉の意味がもうわかる年齢だった。

 でも怖くなかった。

 それが誠一には、少し不思議だった。怖いはずなのに、怖くない。

 澄子が逝ってから、死というものが以前とは違う顔をして見えるようになっていた。

 遠い壁ではなく、向こう側に続く扉のような。


 誠一が天文台の本棚から一冊の本を取り出したのは、九時を過ぎた頃だった。

 古い本だった。背表紙が色あせて、ページの端が黄ばんでいる。

 タイトルは『宇宙と意識――量子論が示す新しい世界観』。

 十年ほど前に読んで、天文台に置いたままになっていた。

 誠一は特定のページを開いた。何度も読んだから、自然にそこが開く。

 付箋が貼られていた。

 澄子の字で「これ、好き」と書かれた付箋が。

 澄子はこの本を読んで、そのページだけに付箋を貼った。難しい量子論の本を、澄子は最初から最後まで読んだわけではない。でもそのページだけは、「これ、好き」と言って付箋を貼った。

 誠一はそのページを、声に出して読んだ。誰もいない天文台の中で、自分の声だけが丸いドームに響いた。


「この宇宙には、量子真空と呼ばれる場が遍く存在している。科学者たちはその場を『ゼロ・ポイント・フィールド』と呼ぶ。この場には、宇宙で起きたすべての出来事が、波動として記録されていると考えられている。あなたの愛した人の声も、笑顔も、共に過ごした時間のすべても——それらは消えることなく、波として宇宙に刻まれ、どこまでも広がり続けている」


 誠一は本を閉じた。

 難しい理論だった。完全に理解できると言えば嘘になる。

 でも澄子が「これ、好き」と書いた気持ちは、わかった。

 星の光と、同じだからだ。


 望遠鏡で見える星の中には、すでに存在しないものがある。

 何万光年も彼方で、もう燃え尽きてしまった星。それでもその光は、今夜もここに届いている。

 消えた星の光が、何万年もかけて、確かにここまで届いている。

 澄子がよく言っていた。

「星の光って、遠い過去からここに届くのね。消えた星の光でも、ちゃんと届くのね」

 そう言いながら、夜空を見上げていた。

 愛した人の声も、笑顔も、共に過ごした時間も——消えることなく、宇宙に刻まれ、どこまでも広がり続けている。

 ならば澄子もそこにいるのだろうか。

 三年前の十一月の夜、最後に見せたあの笑顔も、波として宇宙のどこかに広がっているのだろうか。

 誠一が澄子の手を握っていた、あの夜の温もりも。

 誠一は本棚に本を戻した。

 付箋はそのままにした。

 澄子の「これ、好き」という字が、色あせないうちは、そのままにしておこうと思った。


 十時を過ぎた頃、誠一は胸に痛みを感じた。

 最近よくある痛みだった。締め付けるような、じわりとした痛み。今夜は少し、強かった。

 誠一は椅子に深く座り直して、ゆっくりと息を吸った。

 大丈夫だ、と思った。でも同時に、大丈夫ではないかもしれない、とも思った。どちらの気持ちも、嘘ではなかった。

 痛みが少し落ち着いてから、誠一は望遠鏡から離れて、ドームの床に直接座った。七十二歳の体には堪えたが、なぜかそうしたかった。床に座って、開いたスリットから見える夜空を、ただ見上げた。

 星が、降り注ぐように瞬いていた。


 オリオンが、真上に近い位置まで昇っていた。三つ星がまっすぐに並んで、夜空に刻まれていた。

 誠一は三つ星を見ながら、澄子のことを思った。

 コーヒーカップを両手で包んで、首を傾けながら空を見上げていた澄子。

「オリオンって、頼もしいのよね」と言っていた澄子。四十二年間、隣にいた澄子。

「澄子」

 誠一は夜空に向かって、声に出した。

「もうすぐ行くよ。そっちへ」

 声が、ドームの中に吸い込まれた。

 返事はなかった。

 でも誠一は、続けた。

「怖くないよ。お前のいるところへ行くんだから、怖くない。ただ、もう少しだけ、この星空を見ていたくてな」

 風が吹いた。

 山の夜の風が、ドームのスリットから入ってきて、誠一の頬を撫でた。冷たいはずの風が、なぜか温かく感じた。


 それがいつ始まったのか、誠一にはわからなかった。

 気がついたら、天文台の中の空気が、変わっていた。

 温度ではない。光でもない。音でもない。ただ、何かが満ちてくるような感覚。潮が満ちるように、静かに、しかし確かに、空間の質が変わっていった。

 誠一は床に座ったまま、動かなかった。

 動けなかったのではない。動く必要を感じなかった。

 体の痛みが、いつの間にか遠くなっていた。

 胸の締め付けも、膝の疼きも、七十二年分の疲れも、すうっと引いていくような。


 光が見えた。

 望遠鏡の脇に、小さな光が生まれていた。

 光源がどこにあるのかわからなかった。蛍光灯は消していない。でもその光は蛍光灯とは違う質を持っていた。もっと柔らかく、もっと温かく、もっと懐かしい光だった。

 光は少しずつ、形を持ち始めた。

 輪郭が生まれた。肩の線。首の傾き。後ろ姿。

 誠一は息を止めた。

 見覚えがあった。

 四十二年間、見続けてきた後ろ姿だった。

 紺色のコートを着て、首を少し傾けて、夜空を見上げている——澄子の後ろ姿だった。

「澄子」

 声にならない声で、誠一は呼んだ。

 光の中の澄子が、ゆっくりと振り返った。

 顔が見えた。

 しわも白髪も、病気で細くなった頬も——何もなかった。

 ただ、澄子だった。誠一が初めて出会ったころの、若い澄子でもなかった。

 四十二年間の時間を超えた、魂そのものの澄子だった。

 目が、笑っていた。

 あの目だった。誠一が一番好きだった、目の細くなる笑顔。

「お疲れ様でした」

 澄子の声が、耳の奥に響いた。

 声というより、温かさだった。

 言葉というより、光だった。

 でも誠一には、確かに聞こえた。四十二年間聞き続けた、あの声で。

「お疲れ様でした、誠一さん」

 誠一の目から、涙が流れた。

 泣くつもりはなかった。

 でも止められなかった。

 七十二年分の疲れが、その言葉一つで、ほどけていくような気がした。

 よく頑張ったね、という言葉より深かった。

 苦労したね、という言葉より温かかった。

 ただ、「お疲れ様でした」。

 その言葉の中に、四十二年分の二人の時間が、全部入っていた。

「澄子」

 今度は声に出せた。

「会いたかったよ」

 澄子の光が、少し揺れた。笑っているように見えた。

 誠一は手を伸ばした。

 光の中に、澄子の手があった。

 誠一が四十二年間、何千回と握ってきた手。细くて、温かくて、少しだけ骨ばった手。

 繋いだ。

 温かかった。

 星の光のような温かさだった。

 何万光年も旅をしてきて、それでもまだ温かい、星の光のような。


 誠一は立ち上がった。

 不思議なことに、膝が痛まなかった。

 体が軽かった。七十二年分の重さが、どこかへ行ってしまったような。

 澄子が手を引いた。

 ドームのスリットから見える夜空へ、向かうように。

 誠一は歩いた。澄子の手を握ったまま、夜空へ向かって。

 歩くというより、浮かぶように。進むというより、溶けていくように。


 天文台の床が、遠くなった。

 望遠鏡が、小さくなった。

 ドームが、山が、街の灯りが、遠ざかっていった。

 代わりに、星が近づいてきた。

 オリオンの三つ星が、目の前に広がった。

 こんなに大きかったのか、と誠一は思った。いや、大きいのではない。自分が星に近づいているのだ。宇宙の中に、溶け込んでいるのだ。

 澄子が、隣で笑っていた。

「きれいでしょう」と澄子は言った。「こっちから見ると、もっときれいなのよ」

 誠一は笑った。

 四十二年間、変わらなかった。

 澄子はいつでも、一番いいものを先に見つけて、誠一に教えてくれた。

「そうだな」と誠一は言った。

「お前と見ると、何でもきれいだ」

 澄子の笑い声が、星の海に響いた。

 二人の魂は、手を取り合ったまま、星の光の中へ、静かに、深く、溶け込んでいった。


 翌朝、天文台の扉は内側から鍵がかかっていた。

 心配した職員が開けると、中には誰もいなかった。

 望遠鏡は、オリオン座の方角を向いたまま、静かに据えられていた。

 床の中央に、古い本が一冊、置かれていた。

 ページが開いたままで。

 そのページには、色あせた付箋が一枚貼られていた。

 小さな字で、「これ、好き」と書かれていた。

 ドームのスリットは、まだ開いていた。

 冬の朝の光が、そこから差し込んでいた。

 光の中に、小さな塵が舞っていた。

 まるで星のように、それぞれが輝きながら、漂っていた。

この宇宙に起きたすべての出来事は、消えることなく、波として、どこまでも広がり続けている。

愛した人の声も、笑顔も、共に過ごした時間も——すべては、宇宙の中に、永遠に、在り続ける。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ