第2話 帰らなかった娘
月曜の朝、総武線はいつもより混んでいた。
つり革につかまりながら、スマートフォンの画面を親指で流す。社内チャット、ニュース、天気予報。通知の中に、母の名前があるのに気づいて、いったん閉じた。
昨夜届いていたらしい。
〈実家のこと、今月中に一度帰ってこられる?〉
短い文面だった。余計な言葉はない。二年前、父が倒れたときも、母は同じ調子だった。〈今、病院です〉とだけ送ってきた。あのときも私は会議中で、既読をつけるのをためらった。
電車が揺れ、体が隣の人の肩に触れる。すみません、と小さく言い、画面をポケットにしまった。返事は昼休みでいい。そう思う。
会社に着くと、いつもどおりタイムカードを押し、給湯室でコーヒーを淹れる。総務部は月初が忙しい。請求書の確認、契約書の押印、来客の対応。淡々と処理していけば、夕方には机の上がきれいになる。
午前の会議で、若い営業が資料の数字を読み違えた。部長が眉をひそめる。
「もっと地に足つけて考えろ」
その言い回しに、一瞬だけ指先が止まった。ペン先が議事録の上に小さな点を作る。聞き慣れた言葉だった。昔、食卓で何度も聞いた。
――地に足をつけろ。
私は視線を上げず、淡々とメモを続けた。
昼休み、ビルの裏手のベンチで母に返信を書く。〈今月末なら一泊できます〉とだけ打ち、送信する。送ったあとで、文面が業務連絡のようだと思ったが、書き直す気にはならなかった。
父の葬儀の日も、私は似たような調子だった。喪服のポケットでスマートフォンが震えても、式が終わるまで確認しなかった。焼香の順番が回ってきても、涙は出なかった。出ないことに、少し安心していた。
夕方、母から〈ありがとう〉とだけ返ってくる。
それを見たあと、しばらく画面を閉じられなかった。
夜、帰宅すると部屋はいつもの匂いがした。柔軟剤と、わずかに残った朝のコーヒー。ヒールを脱ぎ、キッチンに立つ。冷蔵庫の中身は少ない。週末は実家に帰るのだから、買い足さなくていいと思う。
シャワーを浴び、髪を乾かし、ベッドに入る。天井の染みを数えながら目を閉じる。
眠りに落ちる直前、廊下を歩く音がした気がした。
コツ、コツ、と規則正しい音。
隣の部屋の住人だろうと思う。壁は薄い。
そう自分に言い聞かせて、私は寝返りを打った。
週末の朝、東京駅は観光客で混んでいた。
キャリーバッグを引く人の列を縫うようにして、新幹線の改札を抜ける。自由席は思ったより空いていて、窓側に座れた。
発車のベルが鳴る。ホームがゆっくりと後ろに流れていく。窓に映る自分の顔は、思っていたより疲れていた。
母からは詳しいことは何も聞いていない。ただ、実家を売る準備を進めていること、その前に一度、必要なものを持ち帰ってほしいこと。それだけだった。
父が亡くなってから二年。実家には一度も足を踏み入れていない。
到着した駅は、記憶より小さく感じた。
改札を出ると、空気が少しだけ乾いている。ロータリーの端に母が立っていた。以前より背が低くなったように見える。
「久しぶり」
それだけ言って、母は車に向かった。私も続く。車内では、天気の話と、近所のスーパーが閉店した話をした。父の名前は出なかった。
実家は、外壁の色が少し褪せていた。門扉のきしむ音は昔と同じだった。玄関の鍵を母が開ける。中に入ると、ひんやりとした空気が頬に触れた。
「二階はほとんどそのまま」
母はそう言って台所に向かう。私は靴を脱ぎ、廊下に立った。
廊下の板は、ところどころ色が薄くなっている。父が毎晩、同じ場所を歩いていたせいだと、昔聞いたことがある。工場から帰ってきて、風呂に入り、台所まで行く。その往復。
荷物を置き、二階の自分の部屋へ上がる。階段の手すりは少しぐらついた。部屋のドアを開けると、閉め切っていた匂いがする。本棚も机も、ほとんどそのままだ。
クローゼットから段ボールを引き出し、要るものと要らないものを分けていく。学生時代のノート、古いアルバム、賞状。父の字で書かれた封筒が一枚、引き出しの奥に挟まっていた。
開けずに、箱の隅に置く。
夕方、母が「少し休んだら」と声をかける。私はうなずき、居間に降りた。仏壇の前には、小さな写真がある。父は、いつもの無表情で写っている。
線香に火をつける。煙が細く立ちのぼる。
何も言わないまま、手を合わせた。
夜は、昔使っていた部屋で寝ることになった。布団は母が干してくれていたらしい。窓の外からは、遠くを走る車の音がかすかに聞こえる。
明かりを消すと、家はすぐに静かになった。
しばらくして、廊下のほうから、床のきしむ音がした。
古い家だから、夜になるとあちこち鳴る。そう思いながら、耳を澄ます。
きしむ音は、止まったり、また一歩分だけ鳴ったりする。
コツ。
間を置いて、
コツ。
誰かが、ゆっくり歩いているような間隔だった。
母は一階で寝ている。トイレに起きたのかもしれない。
布団の中で体を起こしかけて、やめた。
そのまま、目を閉じる。
足音は、しばらくして聞こえなくなった。
朝になれば、ただの家鳴りだと思えるはずだと、自分に言い聞かせながら。
翌朝、母は不動産会社に行くと言って先に出かけた。私は二階の段ボールをいくつかまとめ、昼前に家を出た。少し歩きたかっただけだ。
商店街は思っていたより静かだった。閉まったままの店が増えている。子どものころ通った文房具店は駐車場になっていた。信号を渡ると、小さな公園がある。ブランコと滑り台、それから古い砂場。配置はほとんど変わっていない。
ベンチに腰を下ろす。風は弱く、雲が薄い。平日の午前で、人は少ない。
砂場のそばで、小さな女の子がしゃがみ込んでいた。五歳くらいだろうか。赤いスニーカーのつま先で、何度も地面を踏み固めている。手には、片方のタイヤが外れた小さな車のおもちゃ。
女の子は黙ってそれを見つめ、指先で押し込もうとする。うまくはまらないらしい。何度か試し、砂の上に置く。
車が傾き、ころりと転がった。
拾おうとして体勢を崩す。
私は反射的に立ち上がり、腕をつかんだ。
「大丈夫?」
女の子は驚いた顔でこちらを見上げる。目の奥の色が、一瞬だけ引っかかった。
すぐに体勢を立て直し、私の手を離す。
「ちゃんと立たないと、だめだよ」
無邪気な声だった。誰かに言われた言葉を、そのまま口にしただけのようにも聞こえる。
けれど、その言い回しが妙に正確だった。
私は何も返せず、ただうなずく。
外れたタイヤを拾い上げる。
「貸して」
そう言って、指先で位置を合わせる。力を入れすぎないように押すと、かちりと小さな音がした。
女の子はそれを受け取り、軽く転がしてみる。
「ほら、ちゃんとやれば、できる」
今度は独り言のようだった。
遠くから女性の声がする。
「美咲ー!」
女の子は振り向き、手を上げた。
「はーい」
走り出す。砂の上では足音はほとんど聞こえない。公園の外に出て、舗装された道に変わると、小さな靴底が乾いた音を立てる。
軽い、規則正しい音。
その間の取り方が、昨夜、廊下で聞いた音とどこか似ている気がした。
私は立ったまま、その背中を見送る。
女の子は振り返らない。母親らしい女性の手を取り、通りの向こうへ消えていく。
音も、すぐに途切れた。
公園には、元の静けさが戻る。
ただの偶然だと思えば、それまでだ。
それでも、胸の奥に残った小さな引っかかりは、簡単には消えなかった。
翌朝、目が覚めると家はすでに明るかった。廊下は静まり返っている。昨夜の音を思い出してみるが、夢だったようにも思える。
布団をたたみ、段ボールを閉じる。机の引き出しから、あの封筒を取り出した。しばらく手に持ったまま考え、ゆっくりと封を切る。
中には一枚だけ、短い便箋が入っていた。
――帰る場所は、なくさなくていい。
それだけだった。日付も、続きもない。
父の字は、相変わらず角ばっている。書いた時期はわからない。私が家を出る前か、それとももっと後か。
便箋を折りたたみ、バッグに入れる。
昼前に家を出る。母は門の前まで見送ってくれた。
「気をつけて」
「うん」
それ以上の言葉は交わさない。
駅へ向かう道を歩く。後ろから足音が聞こえる気がして、一瞬だけ立ち止まる。
振り返らない。
風が吹き、街路樹の葉が揺れる。
自分の歩幅を、少しだけ意識する。かかとからではなく、足裏全体で踏みしめるように。
東京に戻れば、また同じ日常が待っている。会議も、請求書も、返信の遅れたメールも。
けれど、昨夜までとまったく同じではないと、なぜか思えた。
新幹線のホームで、スマートフォンが震える。知らない番号からの着信だった。
一瞬迷って、出る。
受話器の向こうで、小さな子どもの声がした。
「……もしもし?」
すぐに大人の慌てた声が重なり、通話は切れた。かけ間違いだろう。
画面には、通話終了の表示だけが残る。
ホームにアナウンスが響く。列車が入ってくる。
その足元で、コンクリートを踏む小さな靴音が、すぐ近くを横切った。
顔を上げると、赤いスニーカーが視界の端をかすめる。
私は何も言わない。
ただ、ゆっくりと歩き出す。
足音は、並ばない。
けれど、遠ざかる気配はしなかった。




