第19話 あの人の声で 伝えたかったのは、ただ一つのこと
声のない食卓
十一月の台所は、音が少ない。
村上誠は包丁を動かしながら、そのことをいつも思った。
夏の台所には虫の声があった。春には窓の外で鳥が鳴いた。でも十一月になると、外の音がすっと引いて、包丁がまな板を叩く音と、鍋の中で何かが煮える音と、自分の息の音だけになる。
この静けさが、誠は苦手だった。
玉ねぎを炒めながら、誠は冷蔵庫の扉に目をやった。いくつかのメモが、色あせたマグネットで留めてある。さつきの字で書かれた走り書きだ。
「牛乳!!」
「拓海 弁当 月曜◎」
「誠へ 夕飯レンジ。三分。」
二年が経っていた。
さつきが突然倒れたのは、春の終わりの朝のことだ。
台所でいつものように朝食を作っていて、そのまま床に倒れた。誠が気づいたのは、音がしなくなったからだった。包丁の音も、鍋の音も止んで、静寂だけが残った朝。
メモは剥がせなかった。
剥がしてしまえば、その下に何もない壁だけが残る。それが怖かった。だから二年間、色あせるに任せて、そのままにしてある。
「飯、できたぞ」
誠は廊下に向かって声をかけた。
しばらくして、廊下の奥の部屋のドアが開く音がした。足音が近づいてきて、拓海が台所の入り口に現れた。高校二年生の息子は、二年前より十センチ以上背が伸び、今や誠より頭一つ分高い。でも顔は、どこかまだ子供のままだと誠は思う。目の周りの柔らかさが、さつきに似ている。
「なに?」
「肉じゃが」
「ふうん」
それだけだった。
二人は向かい合って座り、箸を動かした。テレビをつければよかった、と誠はいつも思う。でもつけそびれると、なんとなくつけにくくなってしまう。この二年、食卓のテレビはほとんど動いていない。
「学校、どうだ」
誠が言った。
「普通」
「部活は」
わずかに間があった。一秒ほどの、小さな沈黙。
「普通」
拓海は顔を上げなかった。誠は何も言えなかった。
その夜、誠は先週のことを思い返していた。
拓海が所属していたサッカー部の顧問から電話があったのは、月曜日のことだ。「拓海くんが退部届を出しました。ご存知でしたか」という声に、誠は「ああ、はい」と答えた。知らなかった。でも知らなかったとは言えなかった。父親として、知っていなければならないと思ったから。
電話を切ってから、誠はしばらく携帯を持ったまま立っていた。
どう声をかければいいのか、わからなかった。
怒るのは違う。慰めるのも違う。ただ聞けばいいのかもしれないが、どんな顔で、どんな声で聞けばいいのか。
さつきがいれば、と思った。さつきなら自然にできた。キッチンから「拓海ー、ちょっとこっちきてー」と明るく呼んで、気がついたら息子が笑っているような、そういうことが彼女にはできた。
誠にはできない。
それがわかっているから、一週間、何も言えなかった。
夜の十時過ぎ、拓海が「風呂入ってくる」と言って立ち上がった。
誠は一人、居間のソファに残った。
少ししてから、誠は廊下に出た。目的があったわけではない。ただ、なんとなく、動きたかった。廊下を歩いて、拓海の部屋の前を通り過ぎようとして、足が止まった。
ドアが少し開いていた。
引き返すべきだった。でも足が動かなかった。薄暗い部屋の中に、机が見えた。引き出しが半分開いている。そこから一冊のノートが、はみ出すように顔を出していた。
誠は入った。
ノートを手に取って、開いた。拓海の字で、びっしりと書かれていた。日付のある日記のようなものだった。誠は最初のページから読もうとして、途中で手が止まった。
一行だけ、他の字より強く書かれた行があった。
「もう消えてしまいたい」
その周りには、何度も書いて消した跡があった。ボールペンで塗りつぶした跡。書き直した跡。まるで何度もその言葉に近づいては、引き返したような痕跡。
誠の手が、震えた。
ノートをそっと閉じ、引き出しの中に戻した。部屋を出て、廊下に立った。浴室からシャワーの音がしていた。
誠は台所に行った。何かしなければ頭がおかしくなりそうで、冷蔵庫を開けたが、何も取り出さずに閉めた。窓の外に、十一月の夜の空があった。星がいくつか見えた。
さつき、と誠は心の中で呼んだ。
どうすればいい。
ラジオ
眠れなかった。
布団の中で天井を見つめて、拓海のあの一行を何度も思い返した。消えてしまいたい。どのくらいの本気で書いたのか。どのくらいの深さから出てきた言葉なのか。確かめなければならない。でも確かめ方がわからない。
深夜の二時を過ぎた頃、誠は起き上がった。
台所に行き、電気をつけないまま椅子に座った。窓から街灯の光が入ってきて、台所をうっすらと照らしていた。冷蔵庫の低い機械音だけが聞こえた。
誠はなんとなく、棚の上のラジオに手を伸ばした。
小さな黒いラジオだった。さつきが料理をするときに、いつも聞いていたものだ。 ジャズとか、昭和歌謡とか、深夜のトーク番組とか。「ながら聴き用」と言って、台所の棚の定位置に置いてある。さつきが倒れてから、誠はほとんど触れていなかった。
電源を入れると、深夜のジャズ番組が流れてきた。
音量を小さくして、誠はそのまま椅子に座っていた。
ジャズのゆっくりしたリズムが台所に満ちて、少しだけ体の力が抜けた。さつきがここに立っていたときも、いつもこんな音楽が流れていた。誠は仕事から帰ってきて、台所から音楽が聞こえると、ああ今日も家に帰ってきた、と思った。その感覚が、今も体の中に残っている。
ピアノのアドリブが続く中、誠は目をつぶった。
さつきの後ろ姿を思い出した。エプロン姿で鍋をかき混ぜながら、小さな声で鼻歌を歌っていた。さつきはよく鼻歌を歌った。テレビで聞いた曲、昔好きだったポップス、出所のよくわからないメロディ。その中でも一番よく歌っていたのが、誠には曲名もわからない、ゆったりとしたメロディだった。
ラジオの音が、ふいに変わった。
砂嵐のような雑音が混じり、番組の音声が遠くなった。誠は目を開けた。周波数がずれたのかと思い、手を伸ばしかけた。
その瞬間だった。
雑音の向こうから、メロディが聞こえてきた。
かすかだった。聞き間違いかもしれないほど、小さな音だった。でも誠には、はっきりとわかった。
あの鼻歌だった。
さつきがいつも台所で歌っていた、あのメロディ。言葉はない。ハミングのような、やわらかい音。それが確かに、雑音の中から聞こえていた。
誠は息を止めた。
故障か、と思った。でも確かめようとは思わなかった。確かめたくなかった、というほうが正しい。ただ、聞いていた。音が消えてしまわないうちに、全部受け取ろうとするように、じっとしていた。
メロディは三十秒ほど続いてから、静かに消えた。
ラジオはまた元のジャズ番組に戻った。何事もなかったように、ピアノが鳴っている。
誠はしばらく動けなかった。
台所のあたたかさが、普段より少しだけ高いような気がした。冷蔵庫の音が遠かった。誠は自分の頬が濡れていることに、遅れて気づいた。いつの間にか、泣いていた。
「さつき」
声に出して言ったのは、初めてかもしれなかった。
妻が死んでから二年間、誠は一度もその名前を声に出して呼んでいなかった。呼ぶことが、怖かったのかもしれない。呼んで、返事がなかったとき、本当に消えてしまったと確信してしまいそうで。
でも今夜は、自然に出た。
「拓海のことが、わからない。どうしてやればいいのか、俺にはわからない。お前がいれば、と思う。毎日、思う」
台所は静かだった。ラジオだけが鳴っていた。
でも誠には、誰かがそこにいるような気がした。返事はない。気配だけ。でもそれで十分だった。
「俺が、ちゃんとしなきゃな」
誠は涙を手の甲で拭った。
台所の窓の外で、風が鳴った。十一月の、細い風だった。
肉じゃが
翌朝、誠はいつもより三十分早く起きた。
朝食を作りながら、今日こそ話そうと決めた。どう切り出すかは決まっていない。うまく言える自信もない。でも昨夜、台所で一人で泣いてから、このままではいけないということだけは、体でわかった。
拓海が起きてきたのは、七時を少し過ぎた頃だった。寝癖のついた頭で台所に入ってきて、冷蔵庫を開け、麦茶を取り出す。その一連の動きが、さつきに似ていると誠は思った。冷蔵庫の開け方も、コップの持ち方も。
「座れ」と誠は言った。
拓海が振り返った。
「なに」
「話がある」
拓海は少しの間、誠を見ていた。それから椅子を引いて座った。麦茶のコップを両手で持ち、テーブルを見ている。
誠も向かいに座った。
「サッカー、辞めたんだって」
間があった。拓海の指が、コップの周りを一周した。
「……誰から聞いたの」
「顧問の先生から」
「そっか」
それだけだった。怒ったり、言い訳したりしない。ただ「そっか」と言って、またテーブルを見る。その横顔が、誠には痛かった。
「なんで言わなかった」
「言えなかった」
「なんで」
「……なんとなく」
誠は少し間を置いた。責めているわけじゃない、と言おうとして、やめた。説明するより、続けるほうが大事だと思った。
「辞めた理由、聞いてもいいか」
拓海はしばらく黙っていた。窓の外で、どこかの家の犬が吠えた。遠くで車が通った。
「なんか、やる気がしなくなった」
「いつ頃から」
「わかんない。気がついたら、グラウンド行くのがしんどくなってた」
誠はうなずいた。それ以上聞けなかった。でも、もう少しだけ続けようと思った。
「……お母さんの話、したことなかったな」
拓海が顔を上げた。
誠はテーブルの木目を見ながら、言葉を探した。うまい話し方は思いつかない。だからそのまま出すことにした。
「俺がお母さんに初めて会ったのは、大学のときだ。サークルの飲み会で隣になって。あいつはそのとき、俺の話を全然聞かずに、隣の女の子とずっとしゃべってた」
拓海が小さく笑った。一瞬だけ。
「プロポーズは、三回失敗した。一回目は言葉に詰まった。二回目はタイミングが悪くて、さつきに『今ちょっと待って』って止められた。三回目でやっと言えたと思ったら、あいつ、もうわかってたよって笑いやがった」
誠は自分でも、こんな話を息子にしたことがないと気づいた。なぜしなかったのか。照れくさかったのか。さつきがいれば彼女が話すだろうと思っていたのか。
「お前が生まれたとき、俺は泣いた。病院の廊下で一人で泣いた。情けないだろう」
「情けなくはないけど」と拓海が言った。
「想像できない」
「俺もそう思う。でも泣いたんだ」
二人は少しの間、黙った。でも今度の沈黙は、朝食のときのものとは違った。
拓海が、ゆっくりと口を開いた。
「俺、お母さんが死んだとき、泣けなかった」
誠は何も言わなかった。
「病院でも、葬式でも。なんか、実感がなくて。夢みたいで。今も、たまに夢かなって思う。起きたら台所にいるんじゃないかって」
拓海の声が、少しだけ揺れた。
「俺もだ」
誠は言った。
「え」
「俺も、今も夢かと思うことがある。帰ってきたら台所にいるんじゃないかって。声が聞こえるような気がして、振り返ったら誰もいなくて。そういうことが、まだある」
拓海は誠を見た。初めて、まっすぐに。
誠はその目を見返した。さつきに似た目だと思った。泣いているわけではないのに、なぜか潤んで見える目。
「お父さんも、そうなんだ」
「そうだ」
「……そっか」
拓海は視線を落とした。でも今度は、どこかが違った。体から何かが、ほんの少しだけ抜けていくような。肩の力が、わずかに下がったような。
誠はそれを見て、やっと少し、息ができた気がした。
鼻歌
その夜、誠は一人で居間にいた。
拓海は夕食の後、「風呂入ってくる」と言って立ち上がり、それからしばらくして自室に戻っていた。朝の会話がすべて解決したわけではない。サッカーのこと、ノートに書いてあった言葉のこと、まだ話さなければならないことは山ほどある。でも誠は、焦らなくていいと思っていた。今朝の朝食だけで、二年分の何かが動いた気がしていた。
居間の時計が九時を指した頃、廊下に足音がした。
台所の方向へ向かう音。冷蔵庫が開く音。それからしばらくして、拓海が居間の入り口に立った。
「腹減った」
「昨日の肉じゃが残ってる」
「温めていい?」
「ああ」
拓海が台所に消えた。レンジが回る音がした。誠は立ち上がって、台所に行った。
「俺も食うか」
「多めに温めといた」
二人で鍋から直接よそって、台所のテーブルで食べた。ちゃんとした食卓ではなく、立ち話をするような台所のテーブルで。それが不思議と、楽だった。
「肉じゃが、うまいな」と拓海が言った。
「お母さんのレシピだ。メモが残ってた」
「そうなんだ」
拓海は箸を動かしながら、冷蔵庫の扉を見た。色あせたメモが並んでいる。
「これ、お母さんの字だ」
「ああ。剥がせなくてな」
「剥がさなくていいじゃん」
拓海はさらりと言った。当たり前のことのように。誠はそれを聞いて、胸の奥で何かが緩んだ。
しばらく二人で食べていると、拓海が「あ」と声を上げた。
「なんだ」
「ちょっと待って」
拓海が立ち上がり、自室に向かった。すぐに戻ってきて、スマートフォンを手に持っている。
「これ、見せようと思ってて。ずっと忘れてた」
テーブルの上にスマートフォンを置き、画面を操作した。LINEのトーク画面だった。「家族」というグループ名の。一番上に「村上さつき」という名前がある。
誠は息を止めた。
「お母さんが生前に送ってきた音声メモ。消せなくて。ずっと持ってた」
拓海が再生ボタンを押した。
スピーカーから、声が流れた。
さつきの声だった。
「今日ねー、カレー作ったよー。帰ってきてね、二人とも。ちゃんと帰ってきてねー」
明るい声だった。少し鼻にかかった、笑いを含んだ声。誠が二年間、一度も聞いていなかった声。
メモはそこで終わるはずだった。
でも、終わらなかった。
声の後ろから、何かが聞こえてきた。さつきがまだマイクを切り忘れていたのか、遠くから、小さなメロディが流れてきた。
鼻歌だった。
ゆったりとした、柔らかいハミング。言葉のない、あのメロディ。
誠は箸を置いた。
昨夜、台所のラジオから聞こえてきた。あの音と、同じだった。
「これ」と拓海が言った。「お母さんのよく歌ってた曲。なんか知らないけど、俺もずっと頭から離れないんだよね。学校でもふと出てきたりして」
誠は何も言えなかった。
音声メモの鼻歌は、十秒ほど続いてから消えた。画面の再生バーが端まで動いて、止まった。
台所が静かになった。
拓海が誠の顔を見た。誠が黙ったままでいるのを、少し心配そうに。
「どうしたの」
誠は何と言えばいいかわからなかった。昨夜のことを話すべきか。ラジオから聞こえてきたことを。でも、うまく言葉にできる気がしなかった。
だから、笑った。
泣きたいのに笑ってしまうような、でも笑っていたら本当に笑えてくるような、そういう笑い方だった。
「なんでもない。お母さんらしいな、と思って」
「何が」
「最後まで鼻歌歌ってんのが」
拓海が、少しの間、画面を見ていた。それから、笑った。
声を立てて笑った。誠が二年間、聞いていなかった笑い声だった。少し鼻にかかった、さつきに似た笑い声。
「たしかに」と拓海は言った。「お母さんらしい」
二人で笑った。台所で、夜の九時過ぎに、肉じゃがを食べながら、声を立てて笑った。
笑い終えてから、しばらくまた食べた。
食べ終えて、拓海が皿を流しに持っていこうとしたとき、誠は言った。
「拓海」
「うん」
「サッカー、もし続けたくなったら、また始めればいい。辞めたくて辞めたなら、それでもいい。ただ……」
誠は言葉を選んだ。
「ちゃんとここにいてくれ。この家に」
拓海は皿を持ったまま、少しの間立っていた。
「……うん」
それだけだった。でもその「うん」は、誠には十分だった。
拓海が皿を洗い始めた。水の音が台所に満ちた。誠は椅子に座ったまま、その背中を見ていた。
不意に、拓海が鼻歌を歌い始めた。
本人は気づいていないのかもしれない。無意識に、小さな声で、あのメロディを歌っていた。水の音の中に混じって、ゆったりとしたハミングが流れた。
誠は目をつぶった。
台所に、さつきがいるような気がした。皿を洗う息子の後ろで、嬉しそうに笑っているような。
返事はない。気配だけ。でも今夜は、それで十分だった。
「明日の飯、俺が作ろうか」
皿を洗いながら、拓海が言った。
誠は目を開けた。
「お前、作れるのか」
「カレーなら」
「お母さんのレシピ、冷蔵庫に貼ってある」
「見た。なんか書き足してあるけど、読めない字で」
「隠し味だ。俺も教えてもらってない」
「じゃあ、適当にやってみる」
拓海が水を止めた。振り返って、タオルで手を拭く。その顔が、台所の蛍光灯の下で、明るく見えた。
誠は「ああ、頼む」と言った。
台所の棚の上で、黒いラジオが静かに置いてある。電源は切れている。
でも誠には、あのメモのそばで、さつきがまだ笑っているような気がした。
「ちゃんと帰ってきてね、二人とも」
あの声が、耳の奥でやさしく繰り返された。




