第18話 白い犬がいた朝 魂の輝きは、消えない
田中葵が実家の玄関を開けると、懐かしいにおいがした。
畳のにおい、古い木のにおい、そしてかすかに線香の残り香。
二十七年間、何百回とくぐったはずの玄関なのに、三月の冷たい空気と混ざり合ったそのにおいを嗅ぐたび、葵は決まって少しだけ胸が痛くなった。
「おばあちゃん、来たよ」
返事はない。
居間のほうから、ぬるいぬくもりがじんわりと漏れてくるだけだ。
葵はコートを脱ぎながら廊下を歩いた。足の裏に伝わる板の間の感触が、幼いころからまったく変わっていない。
祖母の慶子は縁側にいた。
小さな丸椅子に腰かけ、膝の上に薄い毛布をかけ、庭を眺めている。
八十センチほどの高さに切りそろえられた垣根の向こう、隣家の白い壁に春の陽光が当たって、淡い影が揺れていた。
「葵か」
振り向かずに慶子が言った。
耳が遠くなったと本人は言うが、葵の足音はちゃんとわかるらしい。
「うん。今日は早く終わったから」
葵は台所でお茶を二人分入れてから、祖母の隣に腰を下ろした。庭には梅の木が一本あり、白い花がもう七分ほど開いていた。枝の先が空に向かって細く伸びている様子が、葵にはいつも祈っているように見えた。
「ユキのお花、まだきれいね」
慶子がぽつりと言った。
梅の根元に、小さな石が置いてある。丸くて白い、川原で拾ってきたような石。そこにユキは眠っていた。いや、正確には骨の一部がそこに埋まっている。
去年の九月、十四年間一緒に暮らした白い柴犬が、老衰で息を引き取った。
葵が抱いている間に、静かに。
半年が過ぎた今も、葵は縁側に来るたびにユキのことを思い出した。いつもこの場所で日向ぼっこをしていたから。慶子の膝に頭を乗せて、目を細めながら。
「最近ね」と慶子が言った。「朝、ここに座っていると、ユキがおるような気がするんよ」
葵はお茶のカップを両手で包んだ。
「気がする、って?」
「見えるわけじゃないの。でもね、あたたかいのよ。すうっと、こう・・・」
慶子は右手をゆっくり宙に泳がせた。細い指が、見えないものを撫でるように動く。
「犬がそこにおるみたいな、あたたかさ」
葵は何も言えなかった。否定するのも違うし、肯定するのも怖い気がした。ただ、庭の梅の木を見つめた。白い花びらが一枚、風もないのにふわりと落ちた。
葵と慶子が二人で暮らし始めたのは、葵が大学を卒業した年のことだ。
両親が相次いで亡くなり、祖母一人を田舎に残しておくわけにはいかなかった。葵には兄弟もなく、従兄弟たちも遠方に散っていた。
最初は「しばらく」のつもりだった。でもいつの間にか五年が経ち、七年が経ち、今は葵のほうがこの古い家なしでは生きていけないような気持ちになっていた。
ユキはその家の空気そのものだった。
朝、目が覚めると足元で丸くなっていて、台所に立つと足にまとわりついてきて、夜、布団に入ると廊下でぺたぺたと歩く音がして。そういう当たり前の気配が消えてから、家がひとまわり広くなったような、寒くなったような、そんな感覚が葵にはずっとあった。
「ユキ、どこへ行ったんだろうね」
葵が言うと、慶子は少し間を置いてから、
「どこかで元気にしてるよ」と答えた。
その言い方が、葵には少し引っかかった。「元気にしてると思う」でも「元気にしてたらいい」でもなく、断言するような「元気にしてるよ」。
でもその日は聞き返さなかった。
四月になった。
桜が咲き始め、近所の公園ではシートを広げた家族連れが増えた。葵は週三日、隣町の図書館でパートとして働いており、この季節は子供向けの読み聞かせイベントで忙しい。絵本を読んでいる間、子供たちの丸い目が自分に向けられているのが好きだった。物語が始まる瞬間の、あの静寂が。
でもこの春は、帰り道がなんとなく重かった。
理由はわかっていた。先月の受診で、慶子の検査値がいくつか悪くなっていた。主治医は「経過を見ましょう」と穏やかに言ったが、葵には「経過を見る」という言葉の重さがわかる年齢になっていた。
その夜、夕食の片付けを終えた葵が居間に戻ると、慶子が珍しくテレビを消して座っていた。
「葵、ちょっとおいで」
葵は慶子の向かいに座った。慶子は膝の上で両手を重ね、しばらく黙っていた。縁側の外では虫がまだ鳴いておらず、春の夜の静かさだけがあった。
「ユキの話、しようかと思って」
「ユキの?」
「ちゃんと話してなかったから」
慶子は目を細めた。しわの刻まれた目元が、葵にはいつも好きだった。怒った顔も悲しい顔も、全部その目元のしわに収まっているような気がして。
「あの子がおらんようになってから、あんたが毎朝縁側で庭を見てること、気づいとったよ」
葵は少し恥ずかしくなった。
「・・・ユキがいた場所、見てたら落ち着いて」
「そうよね」
慶子はゆっくりうなずいた。そして、
「おばあちゃんもそうだったから。お父さんが死んだとき」
と言った。
お父さん、というのは葵の祖父のことだ。葵が生まれる前に亡くなっており、写真でしか顔を知らない。
「ずっと庭を見てたの?」
「縁側が好きな人でね。定年退職してから、毎朝ここでお茶飲んで。だからよく、ここに来てたよ。あの人が」
葵は息を止めた。
「来てた、って・・・」
「見えるわけじゃないよ」と慶子は先に言った。「でも、わかるの。魂っていうのは、光みたいなものでね。目で見るんじゃなくて、皮膚で感じるような、あたたかさとして来るの」
葵は何も言えなかった。
「ユキもそうよ。外見は変わるかもしれないし、声だって違う。でも魂の輝きは、ちゃんとわかる。あたたかさの形が同じだから。おばあちゃんにはわかる」
慶子の声は静かで、説明するような口調でも、信じてほしいというような切実さでもなかった。ただ、長い時間をかけて自分の中で確かめた何かを、そっと差し出すような話し方だった。
「おじいちゃんは・・・今もここに来るの?」
「たまにね」慶子は笑った。「最近は少なくなったけど。たぶんね、もう別のところで暮らしてるんじゃないかと思って」
「別のところ」
「また生まれてきてるの、かもね。新しい命として」
葵はしばらくそのことを考えた。庭の闇の中で、白い梅の木の輪郭だけが浮かんでいた。
「ユキも・・・いつかそうなるの?」
「もうなってるかもしれないよ」
慶子は穏やかに言った。「魂はね、準備ができたら次へ行くの。死っていうのはね、葵、終わりじゃないの。次の生の、準備をする時間なんよ」
葵は目の奥が熱くなるのを感じた。泣くまいと思ったが、うまくいかなかった。
五月の末、慶子が入院した。
心臓の数値が急に悪化し、経過観察では間に合わないということだった。病院のベッドに横たわる祖母は、思ったより小さく見えた。葵はそのことに気づくたびに、視線をずらした。
入院してから十日目の夜、慶子が葵に言った。
「葵、家に帰って、ちゃんと寝なさい」
「でも・・・」
「ここにいてもしょうがない。あんたがしっかりしてないと、あたしも心配で成仏できない」
慶子が笑った。病院のベッドの上で、しわだらけの顔で笑う。その笑顔が、葵にはたまらなかった。
「変なこと言わないで」
「変じゃないよ。ほんとのことよ」
慶子は葵の手を両手でつつんだ。指が細く、骨が浮いていた。でもあたたかかった。
「葵、おばあちゃんはね、怖くないよ。死ぬのが、怖くない」
葵は答えられなかった。
「ユキに会えるから。お父さんにも。ちょっとだけ会って、またそれぞれ次へ行くんよ。葵も、ちゃんと生きて、そのうちどこかで全員また会える」
病室の窓の外に、夜の病院の灯りが並んでいた。どこかのベッドでナースコールが鳴り、廊下をナースシューズが小走りに過ぎていった。この世界の忙しさと、慶子の声の静けさが、奇妙に混在していた。
「おばあちゃんの輝きは、葵にもわかるよ」と慶子は続けた。
「あんたは子供のときから、輝きがわかる子やった。感じる力が強いから、きっとあたしが行っても、ちゃんとわかる」
葵は泣いた。病室で声を殺して、手の甲で涙を拭いた。慶子は何も言わずに、葵の手をずっと握っていた。
葵は言われた通り、家に帰った。
久しぶりに一人で実家に泊まった夜は、家の中の静けさが重く感じられた。慶子がいないと、台所の水音も、廊下の軋みも、全部自分が立てる音だけになる。ユキもいない。葵の出す音だけが、家に吸い込まれていった。
眠れなかった。布団の中で天井を見つめながら、慶子の言葉を何度も思い返した。
魂の輝き。
あたたかさの形。
死は、準備の時間。
信じたいと思った。でも信じるということがどういうことなのか、葵にはよくわからなかった。信じるというのは、証拠を集めることでも、論理で納得することでもない気がした。ただ、受け取ること。差し出されたものを、両手で。
夜中の三時頃、葵はふと目が覚めた。
眠れていたのか眠れていなかったのか、境界線がぼんやりしていた。布団から出て、廊下を歩き、縁側に出た。
五月の夜気が肌に触れた。
庭は暗かった。梅の木はもうとっくに花が散り、緑の葉をつけた枝が夜の空に広がっている。ユキの石は暗くて見えなかった。
葵はそこに立って、何かを待つように、静かにしていた。
それがいつ来たのか、正確にはわからない。
あたたかさ、だった。
右の足首のあたりに、何かが触れるような感覚。重さはない。音もない。ただ、あたたかかった。
葵は息を呑んだ。
犬がそこにいるときの感触に、似ていた。ユキがいつもそうしたように、葵の足元にそっと寄り添う、あのあたたかさ。
泣いたりはしなかった。ただ、じっとしていた。目をつぶって、その感覚が消えないうちに、できるだけ深く感じようとした。
それはしばらくして、すうっと消えた。
風もなかった。音もなかった。葵は目を開けて、暗い庭を見た。梅の木が静かに立っていた。
おばあちゃんがわかる、と言っていたことが、少しだけわかった気がした。
慶子は六月の初めに退院した。
医師からは「しばらく様子を見ましょう」と言われたが、数値は改善していた。慶子本人は「帰りたかったから帰れた」と言って笑った。葵はそれを聞いて、泣きたいのか笑いたいのかわからない顔をした。
退院して最初の朝、慶子はまっすぐ縁側に向かった。
葵もお茶を持って隣に座った。六月の庭は緑が濃く、梅の葉が光を受けてつやつやと光っていた。ユキの石が、朝の陽の中に白く浮かんでいた。
「ただいま」
慶子が庭に向かって、静かに言った。
葵は何も言わずに、お茶をすすった。
二人はしばらく、何も話さずにそこにいた。遠くで小鳥が鳴き、隣家の子供の声がした。普通の朝の、普通の音。でもその音の全部が、今日はどこかやわらかく聞こえた。
「葵」と慶子が言った。
「うん」
「入院してる間に、来てたよ。ユキが」
葵は手の中のカップを見つめた。
「・・・私にも来てた。ここで」
「そうやろ」
慶子は嬉しそうにうなずいた。「わかった? 輝き」
葵は少し考えてから、「わかった気がした」と答えた。
「それで十分よ」と慶子は言った。
「輝きはね、全部わかろうとしなくていいの。感じることができたら、それが繋がってる証拠やから」
それからも季節は続いた。
梅雨が来て、夏が来た。慶子の体の調子には波があり、良い日もあれば悪い日もあった。葵は仕事と家事と、慶子の通院の送り迎えをしながら、毎日を過ごした。
朝の縁側が、二人の習慣になった。
お茶を飲みながら庭を見て、大した話はしない。天気のこと、昨日の夕飯のこと、図書館で見かけた変わったお客さんのこと。ユキの話をすることも、もうそれほど特別なことではなくなった。「今日もあの子の気配があった」と慶子が言えば、「そうだね」と葵が返す、そのくらいの距離で。
ある秋の朝、葵は縁側で一人でいた。慶子は体調が優れずまだ寝ていた。
庭の梅の木は、もう紅葉を始めていた。葉の一枚一枚が黄色く色づき、朝の光の中で透けて見えた。ユキの石の周りに、枯れ葉がいくつか積もっていた。
葵はそれを眺めながら、お茶を飲んだ。
ふと、足元があたたかくなった。
今度は足首ではなく、膝のあたりまで伝ってくるような、広いあたたかさだった。ユキの感触とも違う、もっとゆっくりとした、おおらかな感触。
葵は目をつぶった。
あたたかさが、少しずつ形を持ってくるような気がした。重さではない。においでもない。ただ、そこに何かがいる、という確かさ。
(おじいちゃん?)
と思った瞬間、胸の奥がじわっと熱くなった。写真でしか知らない人。でもその輝きに、見覚えがあった。慶子の笑顔の中に、いつもあったものと同じ色だった。
それはすぐに薄れていったが、消えた後も、あたたかさだけが残った。
葵はゆっくりと目を開けた。
庭の梅の木が、朝の光の中に揺れていた。
その冬、葵は縁側で慶子にこう聞いた。
「おばあちゃん、死ぬのが怖くないって言ってたけど、それって本当に怖くないの?」
慶子は少し間を置いた。それから、
「旅行みたいなものかな、と思ってる」と言った。「遠くへ行って、知らない土地で新しい暮らしを始める。こわいといえばこわいけど、楽しみといえば楽しみ」
「会えなくなるのは?」
「会えなくなるんじゃなくて、しばらく会いにくくなるだけよ」
慶子はそう言ってから、葵のほうを見た。
「葵、あんたはここに残るでしょ。ちゃんと、自分の命を生きて。それがあたしの、一番の望みやから」
葵はうなずいた。うなずきながら、涙がこぼれた。拭こうとしたが、慶子が「そのままでいい」と言ったので、そのままにした。
縁側から庭を見ると、冬の日差しの中でユキの石が光っていた。白く、静かに。
その光の中に、小さな揺らぎがあった。
目を凝らすと消えてしまうような、でも見ようとしないでいると確かにそこにある、淡い揺らぎ。
葵は今度は泣かなかった。ただ、見ていた。その輝きを、全部受け取ろうとするのではなく、ただそこにあることを認めながら、見ていた。
慶子が葵の肩にそっと手を置いた。
二人は何も言わずに、庭を見ていた。
春になった。
梅が咲いた。
縁側に朝の光が差し込んで、お茶の湯気が白く立ちのぼった。
葵は一人で座っていた。
慶子は二月に旅立った。眠るように、静かに。葵が手を握っている間に。
今朝も、縁側に出ると、あたたかかった。
右の足元から、そっと伝ってくるあたたかさ。今度は二つ、重なっている。一つはユキの、軽くて丸いあたたかさ。もう一つは、もっとゆっくりとした、おおらかな、——慶子の。
葵は目をつぶらなかった。
ただ、お茶を飲みながら、庭の梅を見ていた。
白い花が、朝の光の中でひとつひとつ輝いていた。
葵は小さく、声に出した。
「おはよう」
返事はなかった。
でも、あたたかさが、少しだけ強くなった気がした。




