第17話 名前を呼ぶ声 春の日に、もう一度
夜のアパートは、静かだった。
窓の外で、遠くの車の音がときどき通り過ぎる。
古いエアコンが小さく唸り、時計の秒針が部屋の隅で刻まれている。
その静けさの中で、美咲は布団の横に座っていた。
薄い毛布に包まれて眠っているのは、五歳の息子、陽斗。
小さな体。
柔らかな頬。
汗で少しだけ額に貼りついた髪。
規則正しい寝息が、胸の奥まで染み込んでくる。
美咲はそっと手を伸ばし、陽斗の指先に触れる。
小さな手は、無意識のまま、ぎゅっと握り返してくる。
それだけで、胸が締めつけられる。
「・・・」
美咲は声を出さない。
声を出すと、泣いてしまいそうだった。
昼間、医師から聞いた言葉が、まだ耳の奥に残っている。
「余命は、長くて一年ほどです」
医師はできるだけ穏やかな声で言った。
治療法はある。
ただ、根治は難しい。
進行は遅いが、確実に身体を蝕んでいく病気だった。
一年。
たった一年。
美咲は病院の帰り道、駅前の交差点で立ち止まった。
夕方の人波。
会社帰りの人たち。
学生たちの笑い声。
みんな、普通に明日が来る顔をしている。
自分だけが、違う世界に立っているような気がした。
アパートに帰ると、陽斗が駆け寄ってきた。
「ままー!」
小さな体が、勢いよく抱きつく。
その体温を感じた瞬間、
胸の奥で何かが壊れそうになった。
それでも、美咲は笑った。
「ただいま」
「おかえり!」
陽斗は嬉しそうに言う。
「きょうね、ほいくえんでね、トンネルつくった!」
段ボールで作った秘密基地の話を、身振り手振りで説明する。
美咲は相槌を打ちながら、その顔をずっと見ていた。
この子は、まだ何も知らない。
自分が、あと一年でいなくなるなんて。
離婚したのは、三年前だった。
夫は優しい人だったが、家庭に向いている人ではなかった。
仕事を転々とし、借金が増え、ある日「少し距離を置きたい」と言って家を出た。
それきりだった。
最初は怒りもあった。
恨みもあった。
でも今は、もうどうでもいい。
ただひとつ思うのは、
陽斗を、ひとりにする。
という事実だった。
夕飯を食べ、風呂に入り、絵本を読んで、布団に入る。
いつもと同じ夜。
「もういっかい!」
陽斗が言う。
絵本の最後のページを読み終えたあと。
美咲は笑う。
「これ、三回目だよ?」
「いいの!」
美咲はまた最初のページを開く。
声に出して読む。
けれど途中から、文字が少しぼやけてくる。
泣かない。
泣いたら、この子が不安になる。
だから、声だけは優しく保つ。
読み終えると、陽斗は満足そうに目を閉じた。
「おやすみ、まま」
「おやすみ」
部屋の電気を消す。
薄暗い中で、陽斗の寝息がゆっくり深くなっていく。
そして今。
美咲はその寝顔を見つめている。
一年後。
この子は、誰の「おやすみ」を聞くのだろう。
誰が、朝ごはんを作るのだろう。
誰が、転んだときに抱きしめるのだろう。
想像するだけで、胸が苦しくなる。
「・・陽斗」
美咲は小さく名前を呼ぶ。
眠ったままの陽斗が、少しだけ身じろぎする。
それだけで、涙が出そうになる。
美咲は、枕元に置いてあったスマートフォンを手に取る。
数時間前に思いついたことだった。
録音アプリを開く。
赤いボタンを押す。
少しだけ息を吸う。
そして、ゆっくり言う。
「陽斗」
声が震えないように、慎重に。
「六歳のお誕生日、おめでとう」
「大きくなったかな」
「ケーキ、ちゃんと食べた?」
一度止める。
また録音する。
「小学校入学、おめでとう」
「ランドセル、似合ってるかな」
「友達、できた?」
録音は、いくつも増えていく。
七歳。
八歳。
十歳。
でも一番多いのは、ただの一言だった。
「陽斗」
「陽斗」
「陽斗」
名前を呼ぶ声。
それだけは、何度も録音した。
もし、自分を忘れてしまっても。
この声を聞けば、
少しでも思い出してくれるかもしれない。
そう思った。
美咲はスマホを置く。
そして、もう一度、陽斗の手に触れる。
小さな手。
まだ世界のすべてを掴めると思っている手。
その手を、自分は置いていく。
涙が、一滴だけ落ちた。
陽斗の手の甲に。
「ごめんね」
小さな声で、美咲は言う。
「・・置いていく」
夜は静かに更けていく。
秒針は止まらない。
一年という時間は、
もう、動き始めている。
冬の空は、どこまでも白かった。
病院の窓から見える空は、色が薄く、静かで、世界が遠くなっていくような気がした。
美咲はベッドに横たわりながら、その空を見ていた。
体はもう、思うように動かない。
指先が少し動く程度で、腕を上げるだけでも息が切れる。
それでも、今日だけはどうしてもお願いした。
「陽斗に・・・会わせてください」
医師は少し迷ったが、最後には頷いた。
午後、病室のドアが開く。
小さな足音。
「まま?」
その声だけで、胸の奥が震える。
陽斗が立っていた。
三日前まで保育園に通っていた、いつもの格好。
少し大きくなった気がする。
背も、ほんの少しだけ伸びている。
「来たよ」
祖母に連れられて、ベッドのそばに来る。
美咲は、ゆっくりと手を伸ばす。
震える手。
陽斗はすぐにその手を握った。
小さな手が、ぎゅっと力を込める。
「まま、びょうき?」
美咲は微笑む。
「うん、ちょっとね」
嘘だった。
“ちょっと”ではない。
でも、本当のことは言えない。
陽斗は、しばらく黙って美咲の顔を見ていた。
子どもは、言葉にならない空気を感じ取る。
「まま」
「なあに?」
「おうち、かえろ」
その言葉に、美咲の胸が締めつけられる。
帰りたい。
帰って、いつもの布団で眠りたい。
陽斗に絵本を読んで、朝ごはんを作って、保育園に送りたい。
普通の毎日に戻りたい。
でも、その願いはもう届かない。
美咲は、できるだけ優しく言う。
「陽斗はね」
声がかすれる。
「すごく、すごく、強い子になるよ」
陽斗は首をかしげる。
「つよい?」
「うん」
「いっぱい笑って、いっぱい遊んで」
「大きくなるの」
陽斗は少し考えて、頷く。
「うん」
その素直さが、また胸を刺す。
祖母がそっと言う。
「そろそろ帰ろうか」
陽斗は手を離さない。
「まだ」
「もうちょっと」
美咲は、最後の力を振り絞って、指を握り返す。
その感触を、忘れないように。
「陽斗」
名前を呼ぶ。
何度も呼んだ名前。
世界で一番、愛しい音。
「だいすき」
陽斗は笑う。
「ぼくも!」
その笑顔を、目に焼き付ける。
それが最後だった。
陽斗が部屋を出たあと、病室は静かになった。
機械の音だけが、規則正しく鳴っている。
美咲は天井を見る。
もう、体の感覚が薄れている。
でも不思議と、怖くはない。
怖いのはただひとつ。
置いていくこと。
それだけだった。
遠くで、誰かが名前を呼ぶ気がする。
でも、それは医師でも看護師でもない。
もっと遠く。
もっと小さな声。
視界が白くなる。
音が遠ざかる。
体の重さが消える。
そして――
静かに、すべてが途切れた。
・・・気づくと、美咲は立っていた。
光の中に。
暖かく、やわらかな光。
痛みはない。
苦しさもない。
ただ、静かな安らぎが広がっている。
遠くに、いくつもの光の粒が漂っている。
そこにいるだけで、心がほどけていく。
そのとき、声がした。
「あなたは、よく生きましたよ」
優しい声。
責めるでもなく、慰めるでもなく、ただ事実を告げるような声。
「ここで、休みなさい」
美咲は、少しだけ目を閉じる。
本当に疲れていた。
もう何も考えなくていいのなら、このまま眠ってもいい気がした。
そのとき。
遠くで、音がする。
かすかな音。
最初は分からない。
でも次第に、それが何か分かってくる。
スマートフォンの再生音。
そして――
自分の声。
「陽斗」
録音した声だった。
「六歳のお誕生日、おめでとう」
かすかな泣き声が混じる。
陽斗が聞いている。
一人で。
録音を何度も再生している。
「陽斗」
「陽斗」
「陽斗」
名前を呼ぶ声が、光の中に響く。
そして、かすかな声が重なる。
「まま・・・」
陽斗の声。
小さく、震える声。
その瞬間。
美咲の胸に、激しい衝動が走る。
安らぎが消える。
光の世界が揺らぐ。
「会いたい」
言葉が自然にこぼれる。
「もう一度」
声は静かに答える。
「同じ人生には戻れません」
「でも」
光が、ゆっくり揺れる。
「新しい命としてなら」
美咲は迷わない。
答えは最初から決まっていた。
「それでもいい」
「会いたい」
光が、やわらかく広がる。
そして、世界が静かに暗くなっていく。
遠くで、鼓動が聞こえる。
とくん。
とくん。
新しい命の音。
暗い。
けれど、怖い暗さではない。
柔らかく、ぬくもりのある闇だった。
遠くから、音が聞こえる。
とくん。
とくん。
規則正しい音。
ゆっくりと、波のように繰り返される。
最初は、それが何の音なのか分からない。
ただ、その音に包まれていると、不思議と安心した。
とくん。
とくん。
まるで、世界そのものが呼吸しているようだった。
美咲――だった何かは、その音の中に浮かんでいた。
体の形は、まだはっきりしない。
手も足も、曖昧な輪郭のまま。
けれど、意識はある。
夢の中にいるような、ぼんやりした意識。
何かを忘れていく感覚がある。
とても大切だったものが、水の中に溶けていくように、少しずつ遠ざかっていく。
それが何だったのか、もう思い出せない。
でも、胸の奥に残っているものがある。
言葉ではない。
記憶でもない。
ただ、強い想い。
誰かを呼びたい。
名前を呼びたい。
それだけが、ぼんやり残っていた。
とくん。
とくん。
音が近くなる。
世界が、ゆっくり形を持ち始める。
温かい液体に包まれながら、
小さな体が作られていく。
指。
腕。
まぶた。
心臓。
小さな鼓動が、自分の中でも鳴り始める。
とくん。
とくん。
その音は、どこか懐かしい。
遠い昔に、同じ音を聞いていた気がする。
だが、その記憶はすぐに霞んでいく。
暗闇の中で、光がかすかに揺れる。
その光の中に、ぼやけた風景が浮かぶ。
小さな部屋。
窓から入る朝の光。
テーブルの上のコップ。
そして――
小さな男の子。
笑っている。
「まま!」
声が聞こえる。
とても大事な声。
胸の奥が、きゅっと痛くなる。
その子の名前を、知っている気がする。
口を開く。
でも、言葉は出ない。
思い出そうとすると、風に吹かれた砂のように、記憶は散ってしまう。
ただ一つだけ、残る。
名前を呼びたい気持ち。
それだけ。
世界が揺れる。
外から声が聞こえる。
「元気だね」
「よく動く」
女性の声。
優しい声。
その声は、どこか遠くで聞いたような安心感を持っていた。
体が大きくなる。
時間が流れる。
光と闇が繰り返される。
そして、ある日。
突然、世界が強く揺れる。
押し出されるような力。
光が差し込む。
まぶしい。
空気が冷たい。
肺に初めて空気が入る。
赤ん坊は、大きく泣いた。
その声は、小さくて、力強かった。
「おめでとうございます」
「男の子ですよ」
誰かがそう言った。
赤ん坊は、まだ何も知らない。
名前も。
過去も。
遠い光の世界も。
ただ、胸の奥に、
かすかな温かさが残っている。
それは、きっと――
誰かを大切に思っていた記憶の残り香。
やがて、赤ん坊には名前がついた。
春。
春の生まれだから、という理由だった。
それから、年月が流れる。
春はよく笑う子だった。
人懐っこく、誰にでも手を振る。
でも、ときどき不思議なことがあった。
知らない人を見て、
懐かしそうな顔をすることがある。
誰も教えていない言葉を、ぽつりと言うことがある。
そして、夜。
眠る前に、時々つぶやく。
小さな声で。
「よう・・」
でも、その先は続かない。
言葉はいつも途中で消える。
春自身も、どうしてそんな言葉が出るのか分からない。
ただ、胸の奥が少し温かくなるだけだった。
そして四歳の春の日。
母親が言った。
「今日ね、お友達のお家に行くの」
「優しいお兄さんがいるよ」
春は頷く。
まだ、それがどんな出会いになるのか知らない。
庭には、柔らかな風が吹いていた。
桜のつぼみが、もうすぐ開きそうだった。
春の日差しは、やわらかかった。
午後の光が庭の芝生を淡く照らしている。
風はまだ少し冷たいけれど、どこか甘い匂いが混じっていた。
桜が、もうすぐ咲く。
庭では子どもたちが遊んでいた。
小さなボールを転がしながら、笑い声を上げている。
その様子を、陽斗は縁側に腰かけて眺めていた。
三十歳になっていた。
背は高くなり、顔つきも落ち着いた。
昔より少しだけ、目尻に優しい皺がある。
彼の隣には、小さな男の子がいる。
陽斗の息子だった。
二歳になったばかりで、まだ言葉はたどたどしい。
ボールを転がしては、よろよろ歩いて追いかけている。
庭の向こうから、女性の声が聞こえた。
「春くん、危ないよ」
振り向くと、母親と一緒に小さな男の子が入ってくる。
四歳くらいだろうか。
少し癖のある髪。
好奇心いっぱいの目。
その子が、春だった。
「こんにちは」
母親が笑って頭を下げる。
「今日はお邪魔します」
陽斗は立ち上がり、笑顔で答える。
「どうぞ。子どもたち、庭で遊ばせてください」
春はすぐに庭へ駆け出した。
初めて来た場所なのに、迷いがない。
まるで、前にも来たことがあるかのように。
芝生の上にしゃがみ、陽斗の息子をじっと見る。
そして、にこっと笑う。
「いっしょにあそぶ?」
まだ言葉を理解していない息子も、つられて笑う。
子どもたちはすぐ仲良くなった。
ボールを転がし、転び、また笑う。
その光景を見ながら、陽斗はふっと息をついた。
春の空気は、なぜか懐かしい。
理由は分からない。
ただ、胸の奥が静かに温かくなる。
そのときだった。
ボールが転がり、春の足元に止まる。
春はそれを拾い、陽斗の方を見る。
そして、駆け寄ってくる。
「おにいちゃん」
四歳の子にとって、三十歳は「おにいちゃん」だ。
陽斗は笑う。
「なに?」
春はボールを差し出す。
「これ」
「ありがとう」
陽斗は受け取り、軽く転がす。
そのとき、春がじっと陽斗の顔を見つめた。
長く。
不思議そうに。
まるで、何かを思い出そうとしているように。
陽斗は少し照れて笑う。
「どうした?」
春は首をかしげる。
そして、ぽつりと言う。
「なんか・・・」
言葉を探す。
小さな眉が寄る。
「しってるかお」
陽斗は笑った。
「そう? 初めて会ったのに」
春は少し考える。
うまく言葉にできない。
でも、胸の奥に小さな温かさがある。
懐かしい感じ。
安心する感じ。
どうしてか分からない。
春は、無意識に口を開いた。
「ようと」
時間が、止まった。
陽斗の手が止まる。
春の母親も気づいていない。
ただの子どもの言葉。
でも。
その呼び方は、世界に一人だけだった。
その名前を、
その響きで呼んでいたのは――
母だけ。
美咲だけだった。
胸の奥で、何かが震える。
遠い記憶。
柔らかい手。
夜の声。
「陽斗」
何度も呼ばれた名前。
陽斗は、ゆっくりとしゃがむ。
春と目の高さを合わせる。
「いま、なんて言った?」
春はきょとんとする。
「え?」
「いま」
春は少し考えて、また言う。
「ようと」
それが当然のように。
理由もなく。
ただ、その言葉がそこにあったから。
陽斗の胸の奥に、温かいものが広がる。
涙が、ゆっくり滲む。
でも、泣き顔にはならない。
ただ、静かに笑う。
春の頭に手を置く。
その髪は柔らかい。
小さな体から、ぬくもりが伝わる。
陽斗は、そっと言う。
「そっか」
春は首をかしげる。
「なに?」
陽斗は首を振る。
「ううん」
そして、静かに続ける。
「また会えたんだな」
春には意味が分からない。
でも、なぜか嬉しくなる。
にこっと笑う。
その笑顔を見ながら、陽斗は空を見上げる。
春の空。
やわらかな雲。
遠くで、風が桜の枝を揺らしている。
名前を呼ぶ声は、消えない。
時間を越えて、
形を変えて、
また戻ってくる。
陽斗は、もう一度春の頭を撫でる。
「春」
「なに?」
「いっぱい遊ぼう」
春は元気よく頷く。
「うん!」
そして庭へ駆けていく。
子どもたちの笑い声が広がる。
その声を聞きながら、陽斗は小さくつぶやく。
誰にも聞こえない声で。
「・・・ただいま」
春の風が、静かに吹いていた。




