表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
また会うために  作者: かーすけ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

16/21

第16話 言えなかったプロポーズ 来年の春の、その先へ、

健太は、言葉が少ない男だった。

無口というより、慎重だった。

口に出した瞬間に、何かが決まってしまう気がしていた。


真帆と出会ったのは、五年前の春。

友人の引っ越しの手伝いで顔を合わせたのが最初だった。

段ボールを抱えて階段を上がる途中、真帆が足を滑らせ、健太がとっさに支えた。

「ありがとうございます」

そう言って笑ったとき、彼女の頬にかかった髪が風に揺れた。

その何気ない瞬間を、健太は今でも覚えている。

付き合い始めたのは、その半年後だった。

特別な告白はなかった。


何度目かの食事の帰り道、真帆が言った。

「私たち、もう付き合ってるってことでいいのかな」

健太は照れくさくなって笑い、「たぶん」と答えた。

それが二人らしい始まりだった。


真帆は、よく話す人だった。

今日あった小さな出来事。

通勤途中に見つけた猫のこと。

同僚の失恋話。

健太は、うなずきながら聞く。

言葉は少ないが、聞くことは得意だった。

「健太って、ちゃんと聞いてくれるよね」

そう言われるたびに、少しだけ誇らしかった。

でも、肝心なことは、うまく言えなかった。


三年目の冬。

二人は小さなアパートで半同棲を始めた。

仕事終わりにスーパーへ寄り、安売りの野菜を買う。

台所で並んで料理をする。

「塩、そこ」

「はい」

その距離の近さが、自然だった。

洗濯物を一緒に干すとき、ベランダから見える夕焼けを、二人はよく黙って眺めた。

「こういうの、いいね」

真帆が言う。

「うん」

健太は、それ以上の言葉を探せない。

本当は、“こういうのがずっと続けばいい”と思っている。

でも、それを言うのは、どこか大げさで、照れくさかった。


四年目の春。

真帆が、ふと聞いたことがある。

「結婚とか、どう思ってる?」

夜のリビング。テレビの音が小さく流れている。

健太は一瞬だけ固まった。

もちろん、考えていた。

指輪の値段も、プロポーズの場所も、何度も調べていた。

でも、言葉が出ない。

「まあ・・いつかね」

それが精一杯だった。

真帆は少し笑った。

「“いつか”って便利だよね」

冗談めかしていたけれど、目の奥に、ほんの少しだけ不安が浮かんでいた。

健太は気づいていた。

でも、その夜も、何も言えなかった。


五年目の六月。

梅雨の雨が、窓を叩いている。

次の休みには真帆に言おう。

そう思って、もう三週間経っていた。

完璧なタイミングを探していた。

晴れた日がいい。

景色のきれいな場所がいい。

ちゃんとした言葉で言いたい。

真帆は、その隣の部屋で鼻歌を歌っている。

その声を聞きながら、健太は思う。

“言えばいいだけなのに”

簡単なことなのに、胸の奥で何かが引っかかる。

失うことなんて、考えもしない。

明日もある。

来週もある。

来年もある。

そう思っている。


その夜、真帆はベッドの中で呟いた。

「健太ってさ」

「うん」

「大事なこと、ちゃんと言ってくれなさそうだよね」

冗談みたいに笑いながら。

健太は笑い返す。

「そんなことないよ」

その言葉も、どこか軽い。

真帆は小さく息をつく。

「まあ、いいけど」

部屋の外では、雨が降り続いている。

健太は、暗闇の中で目を開けたまま考える。

言わなきゃ。

ちゃんと。

明日こそ。

そう思いながら、眠りに落ちる。


健太が入院したのは、春の終わりだった。

最初は、ただの倦怠感だった。

仕事の疲れだと思っていた。熱も微熱程度で、咳もない。

ただ、体の奥が妙にだるい。階段を上がるだけで息が上がる。

会社の健康診断で、血液の数値が「少しおかしい」と言われた。

再検査。

紹介状。

大きな総合病院。

そこで告げられた病名は、急性骨髄性白血病だった。

医師は静かに説明した。

血液をつくる骨髄の細胞ががん化し、正常な血液を作れなくなる病気。

進行は早い。すぐに治療を始めなければならない。

そのとき健太は、まるで自分の話ではないように聞いていた。

白血病。

テレビや本の中の言葉だと思っていた。

「治りますか?」

真帆が先に聞いた。

医師は一瞬、間を置いた。

「治療で寛解を目指します。ただ・・年齢的にも進行が速い可能性がある。厳しい戦いになります」

厳しい戦い。

健太は、その言葉を覚えている。

入院は、その日のうちに決まった。

仕事の引き継ぎは同僚に任せ、スマートフォンの画面越しに上司へ頭を下げた。

部屋に戻る時間もほとんどなかった。


抗がん剤治療が始まると、世界は一変した。

吐き気。

脱毛。

免疫が落ち、面会制限。

真帆は防護衣を着て、ガラス越しに笑った。

「似合ってるよ」と冗談を言ったのは健太のほうだったのに、実際に丸くなった自分の頭を見ると、胸の奥が静かに崩れた。

それでも、一度は寛解した。

医師は「希望があります」と言った。

二人で、病院の中庭に出た日があった。

秋の空は高く、金木犀の匂いがしていた。

「退院したら、海に行こう」

真帆が言った。

健太は笑った。

「寒くない?」

「じゃあ春に。来年の春」

来年。

その言葉を、二人は疑わなかった。


冬の初め、再発が見つかった。

今度は、医師の説明も短かった。

治療は可能だが、寛解の保証はない。

体力も、前回ほど残っていない。

帰り道、病院の廊下を歩きながら、真帆は何も言わなかった。

健太も、言葉を探せなかった。

自動販売機の前で、真帆が立ち止まる。

「・・ココア、いる?」

健太は笑った。

「甘すぎるんだよ、それ」

いつも通りの会話。

けれど、二人とも“いつも通り”を演じていることに気づいていた。


その夜、真帆は一人で健太の部屋に戻った。

洗濯物を取り込み、郵便受けを開け、溜まったチラシを捨てる。

生活の匂いがする部屋で、真帆はしばらく立ち尽くしていた。

健太が冗談めかして言った言葉をふと思い出した。

「退院したら、ちゃんと指輪、買いに行こう」

あのとき、真帆は笑って、「サイズ測ってからね」と返した。

真帆は、静かに引き出しを開ける。

そこに、何も入っていないことを確認する。

指輪はまだない。

真帆はバッグから一枚の書類を取り出した。

市役所でもらってきた、婚姻届。

薄い紙一枚なのに、なぜか重い。

保証人の欄は空白のまま。

健太の名前を書く欄も、まだ空いている。

「退院したら、書いてもらおう」

そう思って、もらってきただけだった。

ただ、形にしたかった。

未来を。

真帆はそれを折りたたみ、クリアファイルに入れ、バッグの内ポケットにそっと戻す。

健太にはまだ言っていない。

言えば、彼はきっと泣いてしまう。

あるいは、冗談にしてしまう。

だから言わない。

来年の春。

桜が咲くころに、出そう。

そう決めている。

だが冬は、予想よりも早く、深くなっていった。


・・・呼吸が、浅くなる。

健太はそれを、どこか他人事のように感じていた。

苦しい、はずだった。

けれど痛みはもう、はっきりしない。

体の輪郭が、ゆっくりとほどけていくようだった。

真帆の手の温もりだけが、最後まで確かだった。

機械の電子音が、一定のリズムを刻む。

医師の低い声。

看護師の素早い足音。

けれどそれらは、だんだん水の底から聞こえるように遠くなる。

「真帆」

最後に名前を呼ぶ。

真帆が顔を近づける。

涙をこらえている目。

健太は何か言おうとする。

ありがとうでも、愛してるでもなく、

もっと別の――未来につながる言葉を。

けれど声にならない。


そのとき、不思議な感覚があった。

胸の奥で、何かがすっと軽くなる。

呼吸をしなくてもいいような。

体の重みが消えるような。

そして次の瞬間――

世界の音が、途切れた。

電子音が、一本の長い音に変わった・・ように聞こえた。

あるいは、それはただの錯覚だったのかもしれない。

真帆の叫ぶ声が、遠くから聞こえる。

「健太――!」

だが、その声は次第に、風のように薄れていく。


・・・健太は、目を閉じた――はずだった。

なのに。

自分が、天井の近くから病室を見下ろしていることに気づく。

白いベッド。

泣き崩れる真帆。

慌ただしく動く医療スタッフ。

それを、確かに見ている。

けれど不思議と、驚きはなかった。

「ああ・・」

そう思った気がした。

体はベッドにある。

自分は、ここにいる。

どちらが本当なのか分からない。

時間の感覚も曖昧だ。

数秒なのか、数分なのか。

真帆が、健太の胸に顔を伏せる。

その姿を見たとき、胸が締めつけられるような感情が広がった。

泣かせたくなかった。

一人にしたくなかった。

その想いだけが、強く、強く残る。

すると、空気が揺れた。

病室の天井が、薄く透ける。

いや、透けたように感じた。

白い光が、どこからか満ちてくる。

眩しいというより、あたたかい。

冬の日差しのような、

あるいは春の匂いを含んだ光。

「来年の春」

真帆の声が、記憶の奥で響く。

その言葉と同時に、健太の意識は、上へと引かれていく。

抵抗はない。

健太は、あたたかい光の奥へと、ゆっくり進んでいった。

それが現実なのか、死の間際に脳が見せる夢なのかは、分からない。

ただ――

確かに彼は、“終わっていない”と感じていた。


・・・光は、眩しいというより、やわらかかった。

包まれている、と健太は感じた。

何かに抱かれているような、あるいは水の中を静かに浮かんでいるような。

自分に重さがない。

上下の感覚も、遠近も曖昧だ。

ただ、どこかへ進んでいる気がする。

それが「上」なのか「前」なのかは分からない。

トンネルのようだった、と言えばそうかもしれない。

けれど壁があるわけではない。

光がゆるやかに流れているだけだ。


音はない。

それなのに、静寂が満ちている。

やがて、匂いがした。

甘く、やわらかな香り。

春先にどこかで嗅いだことのある、花の匂いに似ている。

桜だろうか。

それとも金木犀か。

はっきりとは思い出せない。

ただ、胸の奥が静かにほどける。

苦しさはない。

恐怖もない。

あるのは、ひどく澄んだ感覚だった。


そして不意に、景色が開けた。

広がっているのは、光に満ちた野のような場所だった。

色はあるはずなのに、輪郭がやわらかく、境界が溶けている。

遠くに川のような流れが見える。

水面がきらめいている・・ように思える。

健太は、そこに立っているのか、浮いているのか分からない。

だが、不思議と安心していた。

「ここが・・」

言葉にしようとして、やめる。

名前をつけた瞬間に、壊れてしまいそうだった。


時間の感覚はない。

どれくらいそこにいたのか分からない。

一瞬かもしれないし、永遠かもしれない。

すると、視界の奥に、いくつもの光が揺れていることに気づく。

人影のようにも見える。

けれど顔は分からない。

懐かしい、という感情だけがある。

会ったことがある気がする。

遠い昔に。

それが本当に記憶なのか、ただの錯覚なのかは分からない。

そのとき――

ふいに、胸の奥に、小さな痛みが走る。

真帆。

その名が、はっきりと浮かぶ。

光の世界は穏やかだ。

満ち足りている。

けれど、その穏やかさの中に、ひとつだけ欠けているものがある。

真帆の存在。

彼女の声。

彼女の手の温もり。

光の野の景色が、わずかに揺らぐ。

ここにとどまれば、安らげる。

それは直感のように分かった。

けれど同時に、このままでは“終われない”とも感じた。

やり残した想いは、消えていない。

それは後悔ではない。

願いだった。

真帆に、もう一度会いたい。

今度は、別れない形で。


その想いが胸に満ちたとき、光の流れが、ゆるやかに向きを変える。

戻るのか、進むのか。

それさえ曖昧だ。

ただ、何か大きな流れに、そっと身を預ける感覚。

遠くで、鼓動のような音がする。

とくん、とくん、と。

それが誰の鼓動なのか、健太には分からない。

けれど次の瞬間、光はさらに強く、白く広がり――

意識は、ふっと溶けた。

それが消滅なのか、新しい始まりなのか。

健太には、もう判断できなかった。

ただひとつ、真帆の名だけを抱いたまま。


葬儀の日は、よく晴れていた。

空は皮肉なほど澄んでいて、冬の光が静かに町を照らしていた。

真帆はその空を、ほとんど見ていない。

黒い喪服の袖が、やけに重い。

ヒールの音が、会館の床に小さく響く。

「このたびは・・」

繰り返される言葉。

深く頭を下げる人々。

同じ文句のように聞こえる慰め。

真帆は、きちんと頷く。

きちんと礼を返す。

きちんと、立っている。

泣いてはいない。

まだ、泣けない。


祭壇の中央に置かれた遺影の中で、健太は穏やかに笑っている。

あの写真は、二年前の夏に撮ったものだ。

海辺で、まぶしそうに目を細めている。

「来年の春に、また来よう」

そう言ったのは健太だった。

真帆の指先が、わずかに震える。

焼香の煙が、白く立ちのぼる。

あのとき病室で見た白い光に、似ている気がした。


一瞬、足元が揺らぐ。

健太は、どこへ行ったのだろう。

“いなくなった”という言葉は、どうしてもしっくりこない。

さっきまでそこにあった体温が、突然消えるはずがない。

それでも、骨壺は確かに軽かった。

あんなに笑って、あんなに怒って、あんなに未来を語った人が、こんなにも軽い。

自宅へ戻った夜。

部屋は静まり返っていた。

脱ぎかけのスニーカー。

読みかけの本。

洗面所に置きっぱなしの歯ブラシ。

生活の痕跡が、まだそのまま残っている。

真帆はバッグをソファに置いた。

そのとき、内ポケットの存在を思い出す。

ゆっくりとファスナーを開ける。

クリアファイル。

中には、折りたたまれた一枚の紙。

婚姻届。

真帆はそれを取り出し、テーブルに広げる。

健太の名前を書くはずだった欄が、白いまま残っている。

自分の名前も、書いていない。

保証人の欄も、空白。

未来だけが、そこにある。

「退院したら、書いてもらおう」

そう思っていた。

春に。

桜が咲くころに。

真帆の視界が、ゆっくりと滲む。

今まで張り詰めていたものが、音もなく崩れる。

「ばか・・」

小さな声が、部屋に落ちる。

怒っているわけではない。

責めているわけでもない。

ただ、どうしようもなく、愛しい。

婚姻届の上に、涙が落ちる。

丸い染みが、白い紙に広がる。

「置いていかないでよ・・」

声は震え、やがて嗚咽に変わる。

真帆は紙を胸に抱きしめる。

紙一枚なのに、それはまるで、健太の未来そのものだった。


その夜、真帆は婚姻届を捨てなかった。

引き出しにも戻さなかった。

クリアファイルに入れ、再びバッグの内ポケットへそっとしまう。

なぜそうしたのか、自分でも分からない。

けれど、手放せなかった。

まるで、まだ何かが終わっていないかのように。

窓の外で、風が鳴る。

冬はまだ、深い。

けれど遠いどこかで、次の季節の準備が始まっていることを、真帆はまだ知らない。


とくん。

とくん。

とくん。

規則正しい音が、暗闇の中で響いている。

それは遠くから聞こえているようで、同時に、自分の内側から鳴っているようでもあった。

健太には、自分がどこにいるのか分からない。

光の野は、もうない。

花の香りもない。

あるのは、ぬくもり。

やわらかく、包み込まれるようなぬくもり。

重さはまだない。

輪郭もない。

けれど確かに、存在している。


とくん。

とくん。

鼓動が近づく。

それは、自分の心臓ではないと、なぜか分かる。

もっと大きく、深い音。

海の底から伝わる振動のような、安定したリズム。

やがて、意識がわずかに沈む。

眠りに似ている。

だが完全な無ではない。

ときおり、遠い映像のようなものが浮かぶ。

白い病室。

真帆の横顔。

黒い喪服。

婚姻届の白。

それらは、はっきりとは見えない。

水面の向こうに揺れる影のようだ。

思い出そうとすると、遠ざかる。

ただ一つだけ、感情が残っている。

会いたい。

その想いは、形を持たないまま、静かに、しかし確かに存在している。


時間が流れる。

どれほどかは分からない。

暗闇の中で、少しずつ“重さ”が生まれる。

手のようなもの。

足のようなもの。

水の中で漂う感覚。

外から、くぐもった声が聞こえる。

「順調ですね」

「心音もしっかりしています」

女性の声。

安心したような、やわらかな声。

その声を聞いた瞬間、胸の奥が、わずかに震える。

懐かしい、とは違う。

けれど、どこかで知っている響き。

健太は、まだ名を持たない。

記憶も、はっきりとはない。

あるのは、鼓動と、ぬくもりと、消えきらないひとつの想い。


春。

外の世界では、季節が巡る。

桜が咲き、散り、また咲く。

真帆はあれから、何度か婚姻届を取り出しては、またバッグに戻していた。

出す場所のない紙。

けれど捨てられない未来。

そしてある春の日。

産院の窓から、やわらかな光が差し込む。

産声が、部屋に響く。

それは小さく、けれど確かな命の宣言だった。

医師が言う。

「元気な男の子です」

その声は、どこかで聞いた響きに似ている。

新しい肺に空気が満ちる。

世界が、初めて重力を持つ。

光が、眩しい。

泣く、という行為が、自然に体から溢れる。

そしてその瞬間。

健太だった存在は、完全に“今”へと落ちる。

過去は、霧の向こうへ遠ざかる。

ただ――

腕に抱かれたとき。

その女性の鼓動を耳元で聞いたとき。

胸の奥で、何かが静かに震える。

とくん。

とくん。

あのとき聞いた音と、同じだ。

赤子は、まだ言葉を持たない。

けれど、理由のない安心に包まれて、泣き止む。

女性は、その小さな体を胸に抱き、涙をこぼす。

「・・春、だね」

その言葉が、空気に溶ける。

赤子は、目を閉じる。

その胸の奥には、もう記憶はない。

けれど、消えきらなかった想いだけが、微かな温度として、残っている。

それが誰へ向かうのか、まだ誰も知らない。


真帆は、出産の直前まで迷っていた。

あの日から三年が過ぎていた。

健太を失った冬のあと、季節は何度も巡った。

仕事に戻り、日常を取り戻し、笑える日も増えた。

けれど、婚姻届は、ずっとバッグの内ポケットにあった。

誰とも結婚しなかった。

できなかった、というほうが近い。

健太との未来を、完全に手放すことができなかった。

そんな自分を、弱いとも思った。

前に進めない人間だとも。


三年目の春。

真帆は、ある決断をする。

体外受精という選択だった。

健太の治療中、医師から「将来のために」と提案され、凍結保存していた彼の精子。

当時は、使う日が来るとは思っていなかった。

けれど――

「それでも、あなたの春を産みたい」

真帆はそう思った。

誰かの代わりではない。

喪失の穴を埋めるためでもない。

健太と生きた時間が、確かにあった証として。

そして今、腕の中にいる。

小さな体。

小さな指。

まだ焦点の合わない瞳。

けれど、抱き上げた瞬間、真帆の胸に衝撃が走った。

懐かしい。

そんなはずはない。

初めて出会ったはずなのに。

赤子は泣いていたが、真帆の胸に触れた瞬間、すっと泣き止んだ。

耳を胸に押し当てる。

とくん。

とくん。

鼓動。

赤子の体が、わずかに震える。

まるで、その音を知っているかのように。

「・・健太・・」

真帆は思わず、そう呟きかけて、やめる。

違う。

この子は、この子だ。

過去の人ではない。

けれど――

赤子の小さな手が、真帆の指を握る。

その握り方が、あまりに強い。

あの日、病室で握り返された、最後の力と似ている。

真帆の視界が滲む。


春生はるき・・」

真帆はそう名づけた。

春に生まれた命。

あの約束の季節。

“来年の春に”

叶わなかった約束。

けれど今、腕の中に、春がある。

赤子は目を閉じている。

記憶はない。

病室も、光の野も、婚姻届も。

ただ、理由の分からない安心だけがある。

胸の奥の奥に言葉にならない微かな感情がある。

守りたい。

今度こそ。

時間は流れる。


春生は成長する。

笑い、泣き、転び、立ち上がる。

真帆は母として日々を重ねる。

婚姻届は、もうバッグには入っていない。

代わりに、引き出しの奥に大切にしまってある。

あの紙は、提出されることはなかった。

けれど、破られることもなかった。

それは“未完”ではなく、“形を変えた約束”になった。


そして――

春生が五歳になったある日。

真帆が庭で洗濯物を干していると、春生が突然、空を見上げて言う。

「まま」

「なあに?」

「来年の春、海いこ」

真帆の手が止まる。

風が、やわらかく吹く。

その言葉は、誰にも教えていない。

あの日、病室で交わした約束。

春生は続ける。

「だって、あおい海、すきなんでしょ?」

真帆の心臓が、大きく鳴る。

とくん。

とくん。

記憶ではない。

証明もできない。

ただ――

涙が、静かに溢れた。

真帆はしゃがみ込み、春生を抱きしめた。

「・・うん。行こうね」

春生は理由も分からず、ただ母の胸の中で安心している。

彼の奥底には、もう過去はない。

けれど、かつて抱いた“会いたい”という想いだけが、

形を変えて、ここにある。

春の光が、二人を包む。

約束は、途切れていなかった。


その夜。

春生が眠ったあと、真帆はひとり、リビングに残っていた。

窓の外では、春の風がやわらかく鳴っている。

遠くで、どこかの家の風鈴がかすかに揺れた。

真帆は、ふと思い立ったように立ち上がる。

寝室の引き出しを開ける。

奥のほうに、ずっと触れていなかったクリアファイルがある。

ゆっくり取り出し、テーブルに置く。

中から、一枚の紙を広げる。

婚姻届。

折り目は少し擦れ、端はわずかに黄ばんでいる。

そして、中央あたりに、丸い涙の染み。

あの日、初めて崩れた夜の痕跡。

真帆は、指先でそっとその染みをなぞる。

あのときは、未来が消えたと思った。

約束は、途切れたのだと。

けれど今、隣の部屋からは、小さな寝息が聞こえている。

規則正しい呼吸。

とくん、とくん、と刻む鼓動。

真帆は、婚姻届を見つめながら、静かに微笑む。

提出されることはなかった紙。

けれど、ここには確かに、二人の未来があった。

形は変わった。

けれど、消えなかった。

真帆は小さく息を吸い、誰に聞かせるでもなく、呟く。

「ちゃんと、帰ってきたね」

その声は、責めるでもなく、縋るでもなく、ただ深い安堵に満ちている。

春の風が、カーテンを揺らす。

そのとき。

隣の部屋で、春生が寝言のように、かすかに呟く。

「・・真帆」

真帆の手が止まる。

その呼び方は、誰にも教えていない。

母ではなく、名前。

あの日、健太から最後に呼ばれた響きと、同じ。

真帆の瞳から、涙が一筋こぼれた。

驚きではない。

確信でもない。

ただ――

想いは、消えないのだと、知る。

真帆は婚姻届を丁寧に折りたたみ、再び引き出しの奥へ戻す。

今度は未練ではない。

祈りでもない。

それは、静かな感謝だった。

約束は、途切れていなかった。

春は、巡る。

そして、想いは、かたちを変えて帰ってくる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ