第10話 さよならを、もう一度 ひと晩だけの灯り
雨の音を聞くと、胸の奥が硬くなる。
三年前のあの夜も、こんな雨だった。
交差点の信号は青だったと、何度も聞かされた。
姉は傘を差して、いつも通りの足取りで横断歩道を渡っていた。
買い物袋には、妹の好きなプリンが入っていたらしい。
トラックの運転手は、真面目な人だったという。
繁忙期で、昼も夜も走り続けていたという。
家族を養うため、休日も返上していたそうだ。
事故のあった日は朝からの長距離配送で、雨が強く、視界も悪かった。
居眠りではなかった。
酒も飲んでいなかった。
信号無視でもなかった。
ただ、疲労が限界に近づいていた。
ワイパーがせわしなく動くフロントガラス。
にじむ光。
ほんの一瞬、横断歩道の人影を認識するのが遅れた。
それだけだった。
——それだけで、人は死ぬ。
裁判でその事実を聞いたとき、妹は拳を握りしめた。
そんな事情、関係ないよ。
だって、姉は帰ってこない。
加害者は深く頭を下げ続けた。
痩せた顔で、声を震わせながら、何度も謝罪に伺ったと。
妹は一度も会わなかった。
会えば、何かが揺らぐ気がした。
怒りが、濁る気がした。
母は小さな声で言った。
「向こうの奥さんから、手紙が届いてるの」
読まずに机に置いたまま、数日が過ぎた。
ある夜、眠れないままに封を切った。
そこには、震える字でこう書いてあった。
——夫は今も、雨の日に眠れません。
——ハンドルを握れなくなりました。
——子どもが、夜中に父の泣き声を何度も聞いています。
——毎月、亡くなられたお姉様のことを家族で祈っています。
妹は紙を握りつぶす。
「だから何?」
声が震える。
「だから、許せっていうの?」
怒りはまだ燃えている。
けれど、別の感情が混じり始めていた。
想像してしまうのだ。
雨の夜。
ワイパーの音。
疲れ切った目。
その一瞬。
彼は何を見たのか。
それでも。
——許せない。
・・・雨はいつの間にか弱まっていた。
窓を打つ音が、遠くなる。
それでも妹の耳には、三年前の雨音が重なって聞こえる。
姉の部屋の床に座り込んだまま、写真立てを握りしめた。
「どうして」
声はもう怒りではない。
擦り切れた、子どもの声だ。
そのとき。
ふ、と。
空気がやわらいだように思えた。
温度が変わるわけでも、光が揺らぐわけでもない。
ただ、部屋の“密度”が変わったように感じた。
誰かが、息をしたような気配。
カーテンが、風もないのにわずかに揺れる。
妹はゆっくり顔を上げる。
心臓が、ひとつ強く打つ。
——いる。
そう思った。
でも、見るのが怖い。
もし何もいなかったら。
もし自分がおかしくなったのだとしたら。
それでも、振り向く。
本棚の前。
淡い影のようなものが、立っている。
最初は輪郭が曖昧だ。
逆光の中に立つ人影。
目をこらす。
ゆっくりと、焦点が合っていく。
肩の形。
髪の長さ。
あの、少し右に傾く立ち姿。
喉が、ひゅっと鳴る。
「・・・」
声にならない。
人影が、こちらを見る。
その目。
何度も夢に見た目。
叱られるときも、笑うときも、いつもまっすぐだった目。
妹の視界が揺れる。
「うそ・・・」
立ち上がろうとして、足がもつれた。
写真立てが床に落ちる。
割れない。
音だけが、やけに大きく響く。
人影が、一歩、前に出る。
その瞬間、輪郭がはっきりする。
事故の日のコート。
見慣れたスニーカー。
濡れていない。
でも確かに、あの夜のままだ。
妹の呼吸が荒くなる。
「お姉・・ちゃん?」
問いかけというより、祈りに近い。
人影は、ゆっくりとうなずく。
その頷き方まで、変わらない。
胸の奥で何かが弾けた。
怖さはない。
狂気の感覚もない。
ただ、どうしようもない懐かしさ。
妹は一歩、近づく。
手を伸ばす。
触れるのが怖い。
でも、触れなければ消えてしまいそうで。
指先が、そっと姉の袖に触れる。
布の感触がある。
冷たくも、温かくもない。
ただ、確かに“ある”。
その瞬間、涙が溢れる。
理屈が追いつかない。
夢かもしれない。
自分が壊れているのかもしれない。
それでもいい。
目の前にいる。
それだけでいい。
姉が、微笑む。
あの頃と同じ、少し困ったような笑い方で。
そして、最初の言葉を言う。
「長くはいられないよ。今夜だけ・・・」
妹は姉に駆け寄る。
触れた感触はある。
けれど、どこか体温が遠い。
「なんで・・・なんでいなくなったの」
「私、最後のLINE、返してない」
「プリン、まだ食べてないよ」
言葉が崩れる。
姉は黙って聞いている。
「許せないよ」
「真面目とか、家族のためとか、そんなの関係ないよ」
「お姉ちゃんは悪くない」
姉は、少しだけ寂しそうに笑う。
「うん。あなたが怒ってくれてるの、知ってるよ」
妹は泣き叫ぶ。
「だって、だって、死んだのはお姉ちゃんだよ!」
姉は窓の外を見やる。
雨はやんでいる。
「ねえ、あの人ね」
妹の呼吸が止まる。
「事故のあと、何度も泣いてた」
「どうしてわかるの」
姉は答えない。
「壊れたのは、私たちだけじゃないよ」
妹は首を振る。
「でも、だからって!」
姉は静かに言う。
「許さなくていいよ」
妹が顔を上げる。
「無理に許そうとしなくていい。でもね——」
姉は、妹の頬に手を添える。
「あなたの時間まで、止めなくていい」
その言葉が、胸を打つ。
「恨み続けることは、私と一緒に止まることだよ」
妹の肩が震える。
「私、どうしたらいいの」
姉は、優しく、確かに言う。
「あなたが、楽になる方を選びなさい」
「赦すってね、正しいことをすることじゃないよ」
「もう、怒りに縛られないって決めること」
涙が止まらない。
「私ね、あの人を恨んでないよ」
妹が息を呑む。
「だって、私も完璧じゃなかった」
「誰だって、過ちはある」
「雨は、誰かのせいで降るわけじゃない」
姉の姿が、少しずつ淡くなる。
「もう行くね・・・」
「待って、まだ——」
姉は最後に笑う。
「ありがとう。怒ってくれて」
「でも、もう大丈夫」
「あなたは、生きて」
光が差し、姉の姿は静かに溶けていった。
・・・目が覚めたとき、しばらく自分がどこにいるのかわからなかった。
姉の部屋の床に、背中を預けたまま眠っていたらしい。
窓の外は、澄みきった青空だった。
雨の匂いは、もうない。
胸の奥に手を当てる。
痛みは、消えていない。
姉を失った穴は、ちゃんとそこにある。
でも。
そこに渦巻いていた激しい怒りが、静かになっている。
なくなったわけではない。
ただ、炎ではなく、炭のように穏やかに沈んでいる。
昨夜のことを思い出す。
触れた袖の感触。
頬に触れた手。
「許さなくていい」と言った声。
「あなたが楽になる方を選びなさい」と言った目。
あれは夢だったのか。
証明はできない。
でも、胸の奥の何かが、確かに動いた。
三年間、握りしめていたものがある。
怒り。
正しさ。
被害者であるという立場。
「許せない」と言い続けることで、姉を守っている気がしていた。
怒りを手放したら、姉の死を軽くしてしまう気がしていた。
でも——
本当は違った。
怒りにしがみつくことで、
姉をあの雨の夜に閉じ込め続けていたのは、自分だった。
ゆっくりと立ち上がる。
足が、少しだけ軽い。
事故のあった交差点に向かった。
信号は今日も規則正しく変わっている。
車が行き交う。
世界は、止まっていない。
持ってきた花を置く。
しゃがみ込む。
アスファルトに触れる。
冷たい。
でも、現実の温度だ。
目を閉じる。
胸の中に問いが浮かぶ。
——本当に、恨まないでいいの?
すぐに答えは出ない。
加害者の顔を思い浮かべた。
深く頭を下げていた姿。
震えていた声。
そして、手紙に書かれていた、夜中の泣き声。
それでも、姉は戻らない。
それでも、自分は傷ついた。
それでも。
小さく息を吸う。
「・・・もう、恨まない」
声には出ない。
胸の奥で、そう決める。
その瞬間、何かが崩れた。
大きな音はしない。
ただ、固く凍っていた氷が、静かにひび割れた。
涙が止めどなくあふれた。
悲しい。やっぱり悲しい。
赦したからといって、寂しさが消えるわけじゃない。
でも・・・。
怒りだけが支えだった場所に、別の感情が流れ込んだ。
姉の笑顔。
姉の声。
あの「ありがとう」。
怒りではなく、愛の記憶が浮かぶ。
それは、思ったよりも温かい。
姉を守る方法は、怒り続けることじゃなかった。
姉が望んでいたのは、自分が立ち止まることではなく、歩き出すことだった。
ゆっくりと目を開ける。
空が、やけに高い。
風が頬を撫でる。
怒りを手放すことは、敗北ではなかった。
姉を裏切ることでもなかった。
それは、自分の人生を取り戻すことだった。
深く、息を吸う。
ちゃんと、呼吸ができる。
三年ぶりに、胸の奥まで空気が入る。
妹は立ち上がる。
もう一度だけ、花を見る。
そして、小さく微笑む。
「行ってくるね」
誰に向けた言葉かは、わからない。
でも確かに、前を向いている。
姉を失った痛みは消えない。
それでも、怒りだけを抱いて生きていかなくてもいい。
空は青い。
信号が変わる。
妹は、歩き出す。
今度は、止まらない。




