第1話 午前四時の足音
眠れない夜は、音が増える。
冷蔵庫の低い唸り、加湿器の小さな水音、そして、リールの浅い呼吸。
時計の秒針がやけに大きく響いていた。
リビングの隅に敷いた毛布の上で、リールは小さく体を丸めている。胸が上下するたびに、かすかな音が漏れた。
獣医から告げられた言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
「今夜が山かもしれません」――
覚悟はしていたはずなのに、呼吸の間隔が少し空くだけで、心臓を掴まれたように苦しくなる。
眠ってしまうのが怖かった。目を閉じたあいだに、取り返しのつかない瞬間が訪れる気がして、私は意味もなく立ち上がり、水を替え、そっと名前を呼んだ。
返事はない。ただ、静かな夜の匂いと、かすかな体温だけが、そこにあった。
毛布の端からはみ出した前足を、そっと包む。
指先に触れる体温は、前よりもずっと軽い。こんなに小さな体だっただろうか、と何度も思う。
出会った日のことを思い出す。段ボール箱の中で震えていた、まだ耳の大きさが体に追いついていないトイプードル。抱き上げたとき、私の指を必死に舐めた。あのときから、帰宅すると玄関まで走ってくるのが日課になった。
カツ、カツ、と廊下を打つ爪の音。鍵を回すより早く、その音が近づいてきて、次の瞬間には足元に白い影がまとわりつく。尻尾をちぎれそうなくらい振って、私はいつも笑ってしまった。仕事でどれだけ叱られても、その音を聞くと、世界はまだ優しいと思えた。
散歩も好きだった。朝のまだ湿った空気の中、少し誇らしげに胸を張って歩く後ろ姿。私が立ち止まると、振り返って「どうしたの?」とでも言いたげに首をかしげる。その仕草が可笑しくて、わざと何度も立ち止まった。雨の日は嫌がって、玄関で踏ん張るくせに、いざ外に出れば水たまりを気にせず駆け出す。帰宅後、タオルで拭くときの不満そうな顔まで、鮮明に浮かぶ。
病気がわかったのは、ほんの数か月前だ。食欲が落ち、好きだったおやつにも口をつけなくなった。診察台の上で、不安そうに私を見る瞳。
私は「大丈夫」と何度も言ったけれど、本当は何が大丈夫なのか分からなかった。それでも、家に帰ると、リールは決まって私の足元まで歩いてきた。ゆっくり、ゆっくりと。かすかな爪の音を立てながら。
今夜も、その音を待っている自分がいる。もう力は残っていないはずなのに、どこかで信じている。あの、聞き慣れた足音が、もう一度だけ廊下に響くことを。
いつの間にか、私は廊下にいちばん近い部屋に移動していた。電気は消したまま、ドアだけを少し開ける。暗闇に目が慣れると、天井の隅がうっすらと白んでいるのが見えた。夜と朝のあいだの、名前のつかない時間だった。
横になったまま、耳だけが起きている。
冷蔵庫の唸り。遠くを走る車の音。加湿器の水が落ちる小さな音。
その隙間に、ふと、別の音が混じった。
カツ。
一拍おいて、もう一度。
カツ、カツ。
爪が床を打つ、リールの足音だった。ためらいのない、いつもの速さ。弱々しくもなく、迷いもない。玄関からリビングへ向かうときの、あのリズム。
私は目を閉じたまま、息を止めた。
耳が、間違えようのない形で、その音を受け取っている。
カツ、カツ、カツ。
廊下をこちらに向かって歩いてくる。
近づいてくる気配が、はっきりと分かる。
胸がどくんと鳴ったのに、不思議と怖くはなかった。
「あ、起きたんだ」
それが最初の感想だった。
もしかしたら、水を飲みに立ったのかもしれない。少し楽になったのかもしれない。薬が効いたのかもしれない。理由はいくらでも浮かんだ。私は安心して、枕に頬を押しつけた。
足音は、部屋の前で止まった。
一瞬だけ、静寂。
そして、トン、と小さな衝撃がドアに触れた。鼻先で押したときの、あの軽い音。
私は薄く目を開けかけて、やめた。
「あとでちゃんと見にいこう」
そう思いながら、体の力が抜けていく。
音はそれきり、しなかった。
けれど確かに、そこにいた。
あまりにも、いつも通りだったから。
私は何の疑いもなく、「よかった」と思った。
そのまま、深い眠りに落ちた。
目が覚めたとき、部屋はすでに明るかった。カーテンの隙間から差し込む光が、床に細い線をつくっている。時計を見ると、七時を少し過ぎていた。
一瞬、昨夜のことを思い出す。
足音。ドアに触れた、小さな音。
胸の奥に、ほのかな期待が灯る。
もしかしたら、少し持ち直したのかもしれない。
私はすぐに起き上がり、廊下に出た。空気はひんやりとしていて、どこか静まり返っている。リビングのドアを押し開けると、夜と同じ景色がそこにあった。加湿器は止まり、水の匂いだけが残っている。
毛布の上で、あの子は丸くなったままだった。
「おはよう」
声をかける。返事はない。
近づいてしゃがみ込み、そっと名前を呼ぶ。
胸は、もう上下していなかった。
指先で体に触れる。冷たい、というほどではない。けれど、昨夜感じた体温は、どこにもなかった。時間が、静かに止まっている。
私はしばらく、その場から動けなかった。泣き声も出ない。ただ、現実が少しずつ輪郭を持って迫ってくるのを、じっと待つしかなかった。
ふと、時計が目に入る。
午前四時、三分。
昨夜、目を閉じたまま聞いた足音の直後に見た時刻と、同じだった気がした。
あのとき、廊下を歩いていたのは――。
思考はそこまで進んで、止まる。私はもう一度、リールの前足に触れた。小さな爪は、いつも通りに丸く整っている。
「ちゃんと、歩けたんだね」
声に出した瞬間、胸の奥で何かがほどけた。涙が、ようやく静かにあふれてくる。
悲しみといっしょに、不思議な安堵が混じっていた。
見送る準備は、もう始まっていたのかもしれない。
涙はしばらく止まらなかった。けれど、声をあげて泣くことはなかった。ただ、リールの体に額をそっと寄せて、昨夜の音を何度も思い返していた。
カツ、カツ、と廊下を歩く音。
迷いのない、いつもの速さ。
あれは夢だったのだろうか。疲れていたせいかもしれない。何日もまともに眠れていなかったし、願望が音になって聞こえただけなのかもしれない。そう考えれば、説明はつく。
それでも――。
あまりにも、いつも通りだった。
弱った足取りでもなく、よろめく音でもなく、散歩に出る前のあの軽やかなリズム。ドアに触れた小さな衝撃まで、はっきりと思い出せる。
私はそっと立ち上がり、廊下に出た。
床を見つめる。もちろん、何も変わらない。傷も跡もない、いつもの板張りの床。
それでも、確かにここを歩いた気がした。
昨夜の四時三分。
もしリールの最期が、その頃だったのだとしたら。
「最後に、来てくれたの?」
問いかけは、独り言のように空気に溶ける。返事はない。けれど、不思議と空虚ではなかった。
見えなくなっただけで、いなくなったわけじゃない。
そんな考えが、ふっと胸に浮かぶ。理屈ではない。ただ、そう思えた。それだけで、胸を締めつけていた何かが、ほんの少し緩んだ。
リールは、ひとりで旅立ったわけじゃない。
私のすぐ近くを、いつもの足取りで歩いていった。
そう思うと、悲しみの奥に、かすかなあたたかさが灯った。
私は涙を拭き、もう一度、リールの名を呼んだ。今度は、別れのためではなく、送り出すために。
リールを見送ってから、数日が過ぎた。
部屋は驚くほど静かだった。帰宅しても、廊下を駆けてくる音はない。鍵を回すとき、無意識に足元を見てしまう癖だけが残った。空の食器と、畳んだままの毛布。片づけるべきものは分かっているのに、手が伸びない。
それでも、散歩の時間になると、体が勝手に動いた。リードのない手で、いつもの道を歩く。朝の空気はまだ冷たく、吐く息が白い。
公園の角を曲がったとき、枯れ葉が風に押されて転がった。
カツ、と乾いた音がする。
胸が小さく跳ねた。振り向く。そこには、ただの風と、揺れる木々だけがあった。
少し前の私なら、きっと泣いていた。けれど、そのときは違った。音は消えてしまったのに、不思議と怖くも、寂しくもなかった。
私は空を見上げる。
「ちゃんと、行けた?」
問いかけると、風がやわらいだ気がした。枝の先で、朝の光がきらりと揺れる。
返事はない。けれど、あの午前四時の足音を思い出すと、胸の奥に、静かな確信が広がる。
見えなくなっただけで、いなくなったわけじゃない。
私はゆっくりと歩き出す。
リールが好きだった道を、いつもの速さで。
足音は、もう聞こえない。
それでも、隣にいる気がした。
そう思えた朝だった。




