4:橘新太が告白する②
どこをどう走ったのかはよく分からない。橘さんがようやく足を止めたのは住宅街を抜けたところにある公園だった。それなりに広さのある敷地は平日の朝だけあって閑散としている。橘さんはその公園を横切って、植樹が密集している隅っこに向かう。そこには石鳥居を構えたこぢんまりとした神社があった。
「あ~疲れたぁぁああ。俺もうしばらくは走れん。数年は走れん」
わたしの手を放した橘さんは、そのままおぼつかない足取りで本殿の階段に倒れ込む。わたしは戸惑って彼を見た。
「あの橘さん――……走るの遅くないですか」
「うそでしょ? そこ? 逃げてきて最初に訊くのがそこ?」
「ビックリするくらい足遅かったんで……。行き先さえ分かっていれば、わたしが引っ張って行けました。あとスタミナ切れるのも早いです」
「うん待って。先に体力だけ回復させて。今メンタルもやられるとキツい。立ち直れない」
橘さんは軽く片手を上げて長く深い吐息を漏らす。回復に時間がかかりそうだった。
「さっきのヤツってなんだったんですか。そこらにいる影って喋るものなんですか」
「喋る喋る。普通に喋るよー。ていうかアレだね、たぶん七瀬ちゃんには彼らの姿がまともに視えていないとみえる。本来の姿を見れば、そんな言葉も出てこないはずだもん」
「え?」
『ぁぁアあああンんんんんコぉぉぉおおおおお』
首をかしげたところに突然背後から唸り声が襲ってくる。驚いて振り返るとさっきの人影がもう石鳥居の前にいた。植樹とそう変わらない背丈をみると大きさが一層際立つ。
「あああああ橘さん! さっきのヤツもう来ちゃいましたよっ。どうするんですか……!」
「だーいじょぶだって。その人は境内には入ってこない。いや入ってこられないから」
ガクブルに震えるわたしをよそに、橘さんはよっこらせと階段から身を起こして座り直す。黒キャップを取ってこちらに視線を上げた。
「神社っていえば不浄なものを寄せ付けない最強テリトリーでしょ。だからほら、境内の内側で俺ら以外に何か変なモノっている? いないでしょ」
言われて境内を見渡す。神社の周囲を囲む植樹がサワサワと風に揺れて地面に木漏れ日が踊っている。どこを見ても異様な影は見当たらなかった。
「でも、どうしてコレが追いかけて――」
来るんですか、と訊こうとして、今度は鋭い痛みが頭に走り顔をしかめる。黒板を爪で引っかくような嫌な音が耳の奥に響いた。さっきの重い声音が頭に木霊す。
『――ぁあアンコぉ、アンコぉ、アンコぉ、アンコぉ、アンコぉ』
「う、うるさ……っ、な、なんですか、コレっ」
「あー、なんか聞こえてる? やだなぁ、やっぱ遅かったか」
思わず耳を塞いでしゃがみ込むわたしの前で、橘さんは階段から立ち上がる。わたしのところに歩み寄ると、おもむろに背中に回った。
「六根清浄、急々如律令」
言うや、思い切りバシンッと背中を叩かれる。
「いった! 何するんですかっ」
「まーまーそのまま、そのまま」
唐突な暴力に声を上げるわたしに構うことなく、橘さんは続けて胸の前で両手を組む。いくつか怪しげな印のようなものを作った。
「悪魔降伏、怨敵退散、七難即滅、七復速生秘」
最後に人さし指と中指を立てて剣印を作ると空中を四縦五横に切って謎の儀式を終える。途端、頭の痛みと耳鳴りがフワリと消えて体が軽くなった。わたしは立ち上がってこめかみに手を当てる。なんだろう、気のせいだったのだろうか。でもさっきまで、本当に痛かった。
「な、なんですか、今の。なんか頭痛も声もなくなったんですけど」
「邪気を祓って護身をかけた。これでまぁさっきみたいなことは当分ないでしょ。いやー俺が傍にいて良かったね、七瀬ちゃん。普通の人ならあの苦痛を延々味わうことになる」
腰に片手を当てた橘さんはニヤリと口の端を上げる。わたしはまじまじと彼を見つめた。
「あの……橘さんって……」
「何者だと思う?」
「……変わった人と書いて変人、でしょうか」
「肯定しにくい回答すな」
微妙だったらしい。
「それじゃあ橘さんは何者ですか。……普通の人ではないみたいですけど」
わたしは改めて訊いてみる。橘さんは大きく溜め息を吐いた。
「まー七瀬ちゃんの言う通り? 俺はそこらの人とはちょっと違うよ。そうだなぁ、さきに俺の職業について話そうか」
そう前置きしてから、わたしを真っ直ぐ見据えた。
「俺は『専門屋』なんだ」
「専門屋?」
「お祓い家業をする人たちの総称。昔からあの世とこの世の間にある境界の住人として、死霊をあの世に送っているんだ。俺はその専門屋を継承している者。お祓い屋さん」
それはまたファンタジックな。
橘さんは再び階段のところに戻ると、どっかりと腰を下ろす。話を続けた。
「君が視ている影ってのは死霊だ。この町はちょっと変わっていて、そういうのが集まりやすいんだ。俺はその死霊相手に商売している。だから君を助けることだってできる」
「死霊――ですか」
「そう死霊。幽霊。あーもしかしてそういうの信じない派? 怖がらなくても俺がいるから大丈夫だって」
「いや、怖いっていうか……幽霊とかそういうのには昔からいい思い出がなくて。信じていないっていうよりむしろ嫌いだった方なので、なんだか複雑なだけです」
わたしは橘さんから目を逸らす。鳩尾のあたりがギュッと締まる感覚があった。この世のものじゃないとは思っていたけど――よりによって一番遠ざけたいものが見えているとは。
「嫌いだったってことは、今はもう大丈夫なの?」
「はい、今はべつに好きでも嫌いでもないって感じです。あの、ていうか、こんな真っ黒くて喋る影が幽霊だっていうんですか。他の……アメーバみたいなやつとか、泡みたいなやつも、全部? 幽霊って、もっとこう半透明で足がなくて頭に白い布をつけている人かと思っていたんですけど……」
「うん、それが一般的に知られている幽霊ってもんだよ。ただ、七瀬ちゃんの場合は少し違う。君が視ているのは死霊だけど死霊じゃない。一般人が見る世界でもなければ、俺が視ている世界とも違う。なんつーか……とにかくマトモに視えていないわけ」
橘さんは急に難しい顔になって頭を掻く。
「君が視ているものはいわば念――思念体みたいなもん。死霊モドキだ。たぶん昨日あの山で霊感が中途半端に目覚めちゃって、不明瞭に視えているんじゃないかな。いうなれば、眼鏡のフレームはあるけどレンズが合ってない的な? それで日常生活を過ごそうとしているんだから、ひっじょーに危ないわけ」
「べつにそこまで言わなくても……、変なモノが見えるだけで他は問題ないですよ?」
「君はそうかもしれない。でもね、俺からしたら大問題だよ。君は視る側の人間になったのに、視られる側であることを自覚していない。だからこのままだと、確実に呪われて、死ぬ」
はぁ、と呟く。そういえば、昨日も同じことを言われた気がするけど……よく分からない。
わたしのイマイチ状況を呑み込めていない様子を察したのか、橘さんはもう少し話を噛み砕いた。
「まぁ要は霊障ってやつだよ。彼らは寂しがり屋だって聞いたことあるだろ? 自分のことが視える人間にゃ構ってほしくて仕方ないわけ。死霊との接し方が分かる人は自分の身を自分で守ることができるけど、接し方を知らない人は簡単に憑かれて精神を病んで自滅する。つまり呪われて死んでしまう。実際、もう七瀬ちゃん憑かれちゃってるし」
「えっ、うそ⁉」
「ホントホント」
橘さんは大真面目に頷く。鳥居の前にいる巨人の影を指さした。謎の頭痛と耳鳴りがなくなって以降、影は神社に入れないと悟ったらしく、大人しく居座っている。
「あそこにいるのは悪霊、人呼んで『アンコさん』。この町じゃちょっと有名な霊だ。そんで七瀬ちゃんは今、あのアンコさんに憑かれている。だから神社までついてきたんだよ」
「えぇ……悪霊……? わたし何か気に障るようなことしました?」
「気に障るっていうか、アンコさんの声に振り返っただろ。それがいけなかったんだ」
橘さんは沈鬱な表情で腕を組んだ。
「アンコさんは辻にきた人に声をかけて、振り返った人に憑くんだよ。憑かれた人は謎の頭痛と耳鳴りに襲われて散々な末路を辿る。まー霊障を通して生気を吸い尽くされるわけだ。アンコさんはそれを繰り返してもう何十年と成仏していない。ここらの怪談話としちゃ有名な悪霊さ。だーかーら振り返るなって言ったのに」
「そんなの言われたって……」
知るわけがない。こちとら昨日この町に来たばかりだぞ。
「お寺で祓ってもらったらいいんじゃないですか。わたしの目だって治るんじゃ」
「霊感は一度開いたら他の五感と同じで閉じることはないよ。お寺に行ってもいいけど、一時しのぎだね。さっきも言ったが、視る側になってしまった人間は、その時点でもう視られている。君はこの先死ぬまで霊障と追いかけっこをすることは確定済みだ。残念ながらね」
あっけらかんと絶望的なことを言ってくれる。この先ずっと悪霊だの霊障だのに悩まされ続けるなんて、冗談じゃない。終わりのない悪夢じゃないか。夢のキャンバスに描いていた『普通で無難な女の子』に、黒いバッテンを大きくつけられた心地だった。
べつにお金持ちになりたいとか友達百人ほしいとか思っちゃいないのに、こんなことも満足に叶えられないなんて。これは、なんだ。……祖母の呪いなんだろうか。
やっぱりわたしのこと――恨んでる?
ぱん、と軽く両手を叩く音がした。自然と俯いていた顔を上げる。
「そんな暗い顔しなさんな。これはあくまで、『俺から離れたら』の話だよ」
こっちの気を知ってか知らずか。わたしを見据える橘さんは、なんだか商談に臨むサラリーマンみたいな勝ち気な笑みを浮かべていた。
「こっからが本題。もし七瀬ちゃんが俺の傍にずっといて、ついでに子どもを産んでくれるなら、俺は君の今後の安全を保障します。霊障に悩まされることもないし、普通に働いても大丈夫。なんなら他に好きな人つくってもいい。別居はおすすめしないけど。どうでしょう」
「どうでしょうって言われても……、こ、子どもが目当てなんですか」
「うん。まぁ、そう。や~、いきなりこんな話されても困るよねぇ。普通ならこの話するのはもう少し関係を深めてからにしているし。とりあえず、聞くだけ聞いてくれないかな」
そうして、彼は言った。
「実は俺、呪われてんの」




