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第一章 1:七瀬の優雅な朝食

 ……焦げ臭い。


 温かい泥に浸っているような心地よい眠りに、突如として割り込んできた異臭。わたしは寝返りを打って重い瞼を上げた。


 見慣れない天井が広がっていた。閉め切られた水色のカーテンから白い陽の光が漏れている。ゆっくりとベッドの上で身を起こし、寝ぼけ眼で周囲を見回した。


 女性の一人暮らしにはピッタリなこぢんまりとした部屋。けれども室内は絶望的に散らかっている。天井には部屋干しされたまま回収されていない下着、食べ終わった菓子袋や漫画が方々に散乱している床、バッグの中身をひっくり返したようなデスク、口を縛ったレジ袋が積み上げられているゴミ箱などなど……。朝から気分が重たくなる惨状だ。寝ぼけ眼でも分かる。ここは間違ってもわたしの部屋じゃない。従姉の部屋だ。


「……あー……、そっか、昨日……」


 一瞬自分がなぜこんなところにいるのか不思議に思ったけれど、すぐに昨日のことを思い出してワッシワッシと頭を掻く。体中がやたら筋肉痛だから、夢じゃないらしい。


 とりあえずベッドから降りて部屋を出る。途端に先ほどから漂う焦げ臭さが濃さを増し、廊下の先から「どりゃっしゃいわりゃあああああッ」と、それはもう勇ましい奇声と物音が聞こえてきた。わたしはなんとなく臭いの原因を察してそちらに向かう。


 キッチンに顔を出すと、そこには食材の切れ端や調味料などがごった返しになっている中、フライ返しを片手に鬼神の如き顔でフライパンの蓋を開けようとするあおいちゃんがいた。


「あー! 七瀬おはよ、いいところに起きてきた! ごめん、ちょっと代わりに蓋あけてくれないっ? あたし目玉焼き取り出すから、せーのでお願い、せーので!」

「蒼ちゃん……もう一人暮らし始めて何年になるの」

「何年経とうが苦手なモンはあんのよ! いいからちょっと、あんたの朝飯が焦げる!」


 わたしのかぁ~。


 わたしは言われるまま蒼ちゃんの傍らに立って蓋を開ける。蒼ちゃんは「せいや!」と威勢のいい声と共に、盛大に油がはねるフライパンへフライ返しを突っ込んだ。すっかり底辺と一体化した目玉焼き(らしきもの)をガシガシ剥がして皿にバサバサ盛ってケチャップをドバドバかけて瞬く間に一皿を完成させる。その道のプロの手際だ。


「さすがあたし。何ごとにも動じない鋼の心と柔軟な対応力……。朝から冴えてるわ」

「蒼ちゃん……もう諦めて料理教室通ったら?」

「馬鹿ねぇ、七瀬。料理は味覚に頼るものじゃないのよ。心で味わうのが料理なの」


 蒼ちゃんは可愛らしくウインクする。味覚捨ててる時点で料理じゃあないんだ。


 蒼ちゃん。フルネームは照海蒼てるみあおい。六歳年が離れた従姉で、このアパートの部屋主だ。普段は会社の事務員をしている。ほっそりとした体格に、薄くメイクをした作りの良い顔立ち。肩甲骨まである黒髪はサラサラで、颯爽と歩く姿は凜々しく頭も良い。だけどその完璧な容姿とは裏腹に、家では母親すら裸足で逃げ出すほどの壊滅的生活力を持つ奇才の持ち主でもある。見た目で騙されたらいけない。


「さ、ご飯にしましょ。あんた先に顔洗ってきな。すごい寝起きな顔しているわよ」

「はぁ……」


 わたしは曖昧に頷いて洗面所に向かう。確かに、モサッとした顔をした自分が鏡に映っていた。肩に軽く毛先が当たるほどのおかっぱ頭に、可もなく不可でもない平々凡々な顔立ち。華のJKなんて言われる時代を蕾のまま過ごし、ろくに手入れもしてこなかったからこんなに冴えないのだろう。まぁ仕方ないかと蛇口を捻って顔を洗う。壁に掛けられたタオルを取ろうと手探りで探す。どうにも掴めないので軽く目元を拭ってそちらを見る。


 タオルを探していたわたしの手は、バレーボールくらいの大きさをした真っ黒な塊に飲み込まれていた。


「わああああああああ⁉」

「なになになになにどしたの七瀬って、いったぁぁああああ‼ こ、小指がぁぁああッ」


 ガツっという鈍い音と共に蒼ちゃんの悲鳴が聞こえてくる。たぶん足の小指を壁にぶつけたりなんかしたのだろう。わたしは黒い塊から手を引っこ抜いた。塊はなんの抵抗なくわたしの手を解放し、そのまま綿毛のようにどこかに飛んでいく。手を握って開いてもとくに変わったところはない。感触もないし、実体もないようだった。


「ちょ、ど、どうしたの七瀬。まさかゴキ……Gがいた……?」


 片足を引きずりながら涙目の蒼ちゃんが洗面所に顔を出す。やっぱり足の小指を損傷したらしい。が、安心する間もなく、蒼ちゃんの背後にひょっこりと細長い人影が現れる。


「ああああああ後ろ後ろ後ろ! 蒼ちゃん後ろ‼」

「いやああああああああああなになになになに⁉」


 仰天するわたしに仰天して蒼ちゃんが勢いよく後ろを振り返る。その拍子にまたもゴツンと柱に頭を打って悶絶した。うずくまった蒼ちゃんに急いで駆け寄る。


「ごめん蒼ちゃん、大丈夫⁉」

「ね、ちょ、わざと? なに、後ろ何もいないんだけど」

「えっ」


 わたしは顔を上げて、まだ蒼ちゃんの後ろにいる人影を見上げる。――見えていない?


「や、ここに、こう……黒い人みたいなのがいるんだけど」

「はっ⁉ ちょ、やめてよ七瀬っ、朝っぱらからそういうの! いいいいいるわけないじゃない、そんなのっ」

「で、でも……」

「それ以上言ったら泣くわよ⁉ いいの、大人を朝から泣かしても⁉ アンタ責任とってくれるんでしょうねぇ⁉」


 ひしとすがりつかれ、さすがに訴えを引っ込める。朝から大人の本気泣きは見たくない。


「……えぇっと、ごめん、なんか黒い……虫? と見間違えたみたい」

「Gなの? それGだったの?」

「いや、えっと、蜘蛛……みたいな?」

「蜘蛛か……、頑張ればまだなんとかなるわね」


 けっこうなレベルらしい。


「もう、ビックリさせないでよね、七瀬。ほらご飯」


 復活した蒼ちゃんは立ち上がってわたしを手招きする。蒼ちゃんが動いた拍子に、人影は音もなく壁の中に消えていった。怖い消え方だ。


 一緒にリビングに行って朝食の用意をする。テレビをつけると、魔法の杖みたいな棒を持ったお天気お姉さんが本日の天気予報を伝えているところだった。今日は一日快晴とのことらしい。片隅に表示された時計は七時三十分。高校生の頃ならそろそろ登校の準備をしていたあたりかな。


 わたしと蒼ちゃんはテレビの前におかれたローテーブルに向かい合って座る。目玉焼きをはじめとする簡単な朝食を前に「いただきます」と手を合わせた。


「なんかあんた、昨日の夜からちょっとおかしくない? 昼間にはうちに着くって話だったのに、夜になっても全然音沙汰なかったし。かと思えば深夜になって真っ青な顔でうちに転がり込んできてさ。着替えもないし荷物もないし、朝は朝で奇声を上げるし。昨日、駅に着いたら迎えに行くって言ったわよね? 何してたのよ」


 インスタントの味噌汁を箸でかき混ぜつつ、蒼ちゃんが少し責めるような口調でわたしを睨む。わたしはぎこちなく宙に視線を泳がせて言葉を探した。


「ごめん、なんかその……道に迷って、山を彷徨っていたっていうか……?」

「はぁ?」

「あ、それより、今日大家さんに挨拶に行きたいんだけど。蒼ちゃんの隣の部屋に引っ越しすることになったわけだし。菓子折りっているよね」


 進学先の大学がある田舎町に蒼ちゃんが住んでいたことは、まったくの偶然であり幸運だった。蒼ちゃんは昔からわたしを本当の妹のように可愛がってくれていて、今でも頻繁に連絡を取り合うほど仲がいい。今回大学に合格した際も、うちのアパートに来たらいいと勧めてくれたのだ。なんなら引っ越ししやすいように大家さんともいろいろ話をつけておいてくれたらしいので、難なくこの町に来ることができた。


「あーそれね。うん、そういえば忘れてたわ」


 蒼ちゃんは納豆パックの蓋をベリベリ取りながら、あっさり言った。


「ごめん七瀬、あんたの部屋ないって。どっかべつのアパート探しなさい」


 わたしは箸を咥えたまま静止する。


「え、今なんて」

「なんか大家さん勘違いしてたみたいでさ。あんたあたしの部屋に一緒に住むって思ってたみたい。だから、他の希望者に隣の部屋譲っちゃったんだって。そういうわけであんたの部屋はない。他をあたりなさい」

「いやちょちょちょちょ」


 焦って蒼ちゃんの話を止めた。


「いや待って、おかしいよ。ていうか困るよ。蒼ちゃんの部屋におかせてよ」

「あんたと毎晩同じベッドで寝れるかっつの。夏とか暑苦しいじゃん。あと狭いし」

「床でも全然いいって!」

「馬鹿ね、あんたを寝かせられる面積なんてあたしの部屋にはないわよ。物で散らかっているからね!」


 片付けてほしいんだなぁ~。


「それにここよりももっと家賃の安いところはあるわよ。あんた大学生だしワンルームで十分でしょ。霊鞍山たまくらやまの近くは格安物件しかないから今日調べてみたら?」


 蒼ちゃんは納豆とご飯をほどよく混ぜ合わせると、そこに味噌汁をぶっかける。耳慣れない名前に、わたしは目を瞬かせた。


霊鞍山たまくらやま?」

「町外れにある山よ。昔から心霊スポットで有名なところで、そのせいで人が全然住み着かないの。人呼んで『亡霊山』」


 蒼ちゃんは小皿のたくあんを齧って納豆味噌汁かけご飯をサラサラかきこむ。霊鞍山のことを簡単に説明してくれた。


 霊鞍山は町の南に位置するなだらかな稜線が続く山だ。町と町を区切る境目にもなっている場所で、周りは一面水田に囲まれており、道も少ないので当然人の往来もない。なにより、霊鞍山にはその名に『霊』がある通り、昔から陰気な場所として地元民には敬遠されてきたらしい。市が景観をよくするために花を植えようが公園を造ろうが、結局すべて怪談話にされて人っ子一人近づけない状態になっているという。


「お年寄りの話じゃね、あの山は大昔こそ、それなりに有名な霊場だったんだって。ここに来たら死者に会えるとか何かで、修験者やお参りに来る人が多かったみたい。今じゃこの町にはそういう形跡なんて欠片もないけど、亡霊山の山頂にはその頃の石碑が建っているらしいわよ。亡霊山の名前の由来や噂も、そういう経緯からきているんでしょうね」

「有名な霊場だったのに今じゃ疎まれてると」

「信仰の流れは時代の流れよ。どんなに好きだった漫画もぬいぐるみも、時間が経てば結局部屋の隅に追いやられているものでしょ。部屋の汚れもまた、時間の流れってもんよ」


 片付けてほしいんだなぁ~。


「でもなんか……曰くのあるところってちょっと気味悪いかも。他におすすめはないの?」

「ない。あそこが一番安い。ていうかあんたなら大丈夫なんじゃないの? 中学の頃からオカルト嫌いで耐性もあるじゃん。()()()()()()()()()()()()


 向かいで蒼ちゃんがニヤリと笑う。目玉焼きをチビチビ食べていたわたしは、決まり悪く箸を止めた。


 確かに蒼ちゃんの言う通り、わたしはその昔、幽霊とかオカルトな話をものすごく嫌っていた。だから今でもホラーや怪談、なんならスプラッターものも、特に驚かなかったりする。オカルトが嫌いだったから――信じないようにしていたから、自然と耐性というものがついたらしい。まぁ、さっきの洗面所ではさすがに度肝を抜いたけど。


 とはいえ、オカルトが嫌いだったのはあくまで中学から高校にかけての、幼く多感なお年の頃の話だ。大学生になった今は、少し違う。


「今は、べつに好きでも嫌いでもないよ」


 ぶっきらぼうに言うと、ご飯をかき込んでいた蒼ちゃんは興味深そうに箸を止めた。


「あら、そうなの? あんたがそんなことを言うなんて意外ね。おばあちゃんのこと一生許さない気でいるのかと思ってたわ。最期まで口を利いてなかったんでしょ?」

「……べつに、ケンカしてたわけじゃないよ。もうあの頃のこともそんなに気にしてないし」

「へぇ、成長したのねぇ七瀬。そりゃいいことだわ」


 蒼ちゃんは大袈裟に頷いて感心する。「でもさ、」と少し困り顔になった。


「そう言うならもっと早く素直になっときゃよかったのに。言うべき相手がいない今に言ったって、虚しいだけでしょう。過ぎたことを言うのもなんだけど」


 チクリと胸に痛みが走る。嫌な痛みだ。

 こんな思いをしたくなかったから――……あの家から出てきたのに。

 いや! 昔に呑まれるな、わたしよ! 今は前だけ見ないと!


「とにかく、昔のことはいいの! 今はアパートの話っ。わたしは大学生になったこの機会に普通の女の子になりたいの。だからアパートも、普通の女子大生が使うアパートがいい!」

「普通の女の子って、それもそれで変な話ね。まぁあんたが気にしていないならいいけどさ」


 蒼ちゃんは気を取り直した様子で再び茶碗をかたむけた。


「春休み中はうちにいてもいいけど、休みが終わるまでには新しい部屋を見つけてね。駅前も物件はたくさんあるだろうけど高いわよ? ま、新しい生活を送りたいなら、それこそ彼氏でも見つけて転がり込むのがいいかもねぇ。根暗なあんたにゃ無理だろうけど」

「余計なお世話ですぅ!」


 反射で噛みついた拍子に、昨日のことが記憶の引き出しからポロリと顔を出す。わたしは自分の顔がブルドッグみたいになったのが分かった。……昨日のことは全部忘れてしまいたい。


 納豆味噌汁かけご飯を流し込んだ蒼ちゃんは「ごちそうさま!」と手を合わせる。自分のお皿を回収してキッチンに引っ込んだ。それから慌ただしく支度を整え、髪を一つに結んでリビングに戻ってくる。部屋の隅にあるハンガーラックからスプリングコートと鞄を取ってこちらを振り返る。


「じゃ、あたし会社行ってくるから。ていうか、あんた荷物は大丈夫なの? 身一つでここに来たわけじゃないでしょうに」

「あ、うん、それは……大丈夫。たぶん」

「本当に? 何か困っているならちゃんと言いなさいよ。出かけるんなら戸締まりしっかりね。鍵は玄関とこにあるから」


 テキパキと指示を出して蒼ちゃんは颯爽とこちらに背を向ける。「行ってきまーす」と間延びした挨拶をして出て行った。わたしは皿に残った目玉焼きを口に運ぶ。ケチャップの味しかしなかった。

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