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第二章 1:直線上の迷走

 後悔先に立たずという言葉がある。


 すでにしてしまったことを後から悔やんでも取り返しはつかない。だから後悔しないように事前に十分注意することは大切だという先人の教えである。


 それは恋にしろ仕事にしろ人生にしろ、とにかく何かを始めるのであれば必ず一度は味わう苦汁であり、戒めだ。


「――でも思うんです。確かに先のことを考えていろいろと準備しておくことはいいことだと思います。ですが、世の中には時にやってみないと分からないことだってあります。それこそトライという心意気です。わたしは、何ごとも危険を顧みずに挑戦する人を心から尊敬しています。運命というのは、変えられる人には変えられるんだと」


 玄関入ってすぐの廊下にて、わたしは神妙に語る。


 水色のキャリーバックを横に寝かせ、居住まい正しく正座をしていた。傍らには挨拶用に持ってきた和菓子の包み。首に巻いたマフラーもまだ解いていない。ほんのついさっきここに到着したばかりだ。けれども着いて早々――いや、道中からなんとなく分かっていたけど――今、わたしはとても辛い現実を突きつけられている。


「でも運命を変えられなかった人にとっては、この世はさぞや残酷に見えることでしょう」


 手元に視線を落としていたわたしは、語りかけていた相手に顔を上げる。


 階段前の床に、腰に手を当てた青年がうずくまっていた。


 廊下には口が開いてしまったゴミ袋の中身と、彼の物だと思わしき洗濯物から雑誌・新聞紙、座布団などなどが散乱している。誰がどう見ても、一人で持つには二往復くらい手間がいると分かる量だった。


 頭に紙くずを乗せ、それまで奥歯を噛みしめて無言を貫いていた彼が、細い息を漏らす。端正な顔立ちを青く引きつらせてこちらに顔を上げた。


「あの、さっきから何の話してんの。誰のこと言ってんの、七瀬ちゃん」

「向こう見ずって、どこの水ですかねって話をしているんです、橘さん」

「絶対ちげぇだろッ‼」


 反射で吠えたのが腰に響いたのか、はうっ、と短い悲鳴を漏らして橘さんはさらに悶絶する。どうも二階から一度に大量の荷物を下ろそうとして、誤って足を滑らせたらしい。


 というわけで。今日からわたしはこの残念な人と暮らすことになる。


    ◇◇◇


 幽霊が見えるようになってから一週間。わたしの世界はすっかり『異常』から『平常』になっていた。


「で、さっきの茶番は一体何なんですか。来る途中いきなり電話がきたと思ったら、死にそうな声で『俺死ぬかも』って言われて驚きましたよ。なんで分かったのかと」

「まって俺殺される予定だったの?」


 通された居間で、座卓を挟んだ向かいに座った橘さんが、湿布を貼った腰をさすりつつヒクリと口の端を上げる。わたしは気にせず軽く肩をすくめてみせた。


「ご想像にお任せします」

「ねぇ怖いんだけど⁉ 今日から夜トイレに行けないんだけど⁉」

「先に言うのが遅れました。今日からお世話になります」

「今言うな!」


 バシバシと座卓を叩かれる。一週間会っていなかったけど、調子は相変わらずらしい。


 時刻は慌ただしく一日が動き出す朝の八時。わたしが今いるのは橘さんが下宿しているという家で、名をヒイラギ荘という。町外れに悠然と鎮座する霊鞍山からほど近い地区の一角に建つ、築ウン十年の二階建て日本家屋だ。現在この荘には橘さんを入れて三人の同居人がいるらしい。


 アンコさんの成仏をきっかけに死霊本来の姿が見えるようになったあの日。流れという流れで、あの変な店でバイトをすることになったわたしは、まずは目を慣らせと一度蒼ちゃん家に帰された。いきなりこんなことになって大変だろうからと橘さんが気遣ってくれたのだ。落ち着いたら連絡するようにと言われ、そのまま時が流れて忘れていた。昨日になって「ねぇ忘れてないよね⁉」と橘さんから電話をもらい、こうして赴いた次第である。


 明るいグレーのスウェットに黒のパンツというラフな格好をしている橘さんは、腕を組んで大いに悪態をついた。


「ったく、『今、従姉の家に仮住まいしていて新しく住む家を探しているんです』っていうからここ紹介したのに、家に上げた途端コレですよ。しかもとうの昔に霊視は馴染んでんのに連絡一つ寄越さないでさ。俺がどんだけ毎日ソワソワしていたと思ってんの。告白の返事を待つ中学生男子並みのソワつきようだったんだぞ。この気持ちが分かるか」

「超絶イケメンの橘さんのことを思うと緊張して連絡できなかったんです。すみません」

「いや全然いいんだよ? 七瀬ちゃんの気持ちは分かっていたし? 内心そうじゃないかなーって思ってたんだよね。俺全然怒ってないから安心して」


 チョロいな。


「まぁ何はともあれ、無事に来てくれてよかったよ。これから改めてよろしく、七瀬ちゃん」

「あの、他の方はいらっしゃらないんですか。よければご挨拶したいんですけど……」

「他はもう出勤していないんだ。今この家にいるのは俺だけ。またあとでスーパーに行ってから紹介するよ」

「となると……他の人たちも専門屋、ですか」


 わたしは橘さんを見据えながら頭の隅から記憶を引っ張り出す。専門屋――お祓い屋を家業とする人たちの総称だったか。あの境界にある冥土スーパーは彼らによって運営されているらしい。


 橘さんはニッコリ笑った。


「そ。二人ともまだ高校生で去年からうちにいるんだ。良い子らだから楽しみにしてて」

「はぁ……」

「んじゃあ、さっそく七瀬ちゃんの部屋を紹介しようか。頑張って準備したから、気に入ってくれるといいんだけど」


 そう言って、腰を庇いつつおもむろに立ち上がる。釣られて腰を上げようとしたわたしを軽く制し、背後の閉め切っていた襖に手をかけた。てっきり二階に部屋があるのかと思ったのだけど、一階らしい。というか――……頑張って準備したって、何を?


「では、オープンっ!」


 橘さんが勢いよく襖を開ける。わたしは絶句した。


 なにから何までハートで埋め尽くされた部屋だった。天井近くには『WELCOME!』と一文字ずつ単語が入ったハートの風船。なぜかぴったりくっつけて敷かれた布団とハート型の枕が二つ。ハート柄のカーテンレースに、ハートを持ったぬいぐるみ群。ハートのところにハートがあって、ハートがハートでハートハートハート……。


「ど、どうかな、七瀬ちゃん。この出来栄え」


 凍りつくわたしの隣に橘さんがくる。へへっ、と得意気に鼻をこすった。


「俺の愛情を最大限に表わしたんだ。いや~けっこう時間かかって大変だったよ。ハート集めるのもそうだけど、配置がね。でもこれも七瀬ちゃんが喜ぶと思えば全然苦じゃなかったよ。むしろ楽しかったとも。さぁ、これからはずっと一緒だね、七瀬ちゃん。ここが俺たちの幸せの終着点――愛の巣だ!」

「帰ります」

「おっとどこに帰ろうというんだね」


 すぐさま立ち上がり回れ右しようとして、素早く肩を掴まれる。


「七瀬ちゃんの帰る場所は今日からここでしょうが。もぉ~なに恥ずかしがってんのよ。恥じらう七瀬ちゃんも可愛いけどさ」

「誰がこんな場所で生活すると思いますか。愛情じゃなく狂気です。狂ってます。どういうつもりですか」

「どうもこうもない。俺はいつだって君に全力で愛を捧げるってことだよ。なんたって世界の命運がかかってますからね!」


 橘さんはパチリとウインクをしてみせる。わたしはもう目眩がした。サブイボが止まらん。


 橘新太――この男は呪われているらしい。


 なんでも血筋を絶えさせたら、世が滅ぶとか。


 賢いのかいい加減なのかよく分からないご先祖さんによって、このまっこと胡散臭い呪いを押しつけられた彼は、一族の宿命の下、日々恋人探しに奔走しているという。


 そして何をとち狂ったのか、現在彼のターゲットはわたしに設定されている。つまりこの家に来た以上は当分、彼のこの珍行動に付き合わされるというわけだ。地獄である。


 そりゃ、この家に来ると決めたのはわたしだけども、だからってこんな部屋まで用意されているとはさすがに思わないじゃあないか。一歩間違えればというか完全に間違って変態部屋である。他の彼女さんであっても戦慄する。見た目は高得点をマークしているのに、どうして中身がこんな絶望的にアホなんだ。


「今すぐこの部屋の撤去を求めます」

「そんな……頑張ったのにっ。ハートが足りなかった⁉」

「足りて溢れて気持ち悪いほどなので撤去してくださいって言ってんですよ、この変態。ていうかまさかコレ、他の人も知っているんですか」

「もちろん、セッティングも手伝ってもらったよ」


 わたしはうな垂れた。


「……もう、どんな顔をして会えばいいんです……恥ずかしすぎます」

「大丈夫だよ、七瀬ちゃん。みんなには俺のお嫁さん(仮)って話しているし、歓迎してくれている。何も不安に思うことはないとも!」


 だから……誰がアンタのお嫁さん(笑)になるっつったよ。


 さすがに怒りというものが沸いてくる。確かに宿命を負わされている彼の気持ちは分からなくない。世界の命運のためにも血筋を繋げようと必死なのだろう。でも、わたしだって一応人を選ぶ権利はあるわけで。拒否しているのに無理矢理中身のない好意を押しつけられても困るわけで。しかも他の人にもすでにお嫁さん(笑)宣言をしているっていうし。いくらなんでも勝手が過ぎる。


 これは――……今日からここに住む以上は、どうにかせねばならん。


「橘さん」


 深く吐息を零したわたしは、毅然として彼に顔を上げる。


「ルールを決めましょう」


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