序章
2024年KADOKAWAの富士見ノベル大賞に投稿した作品を少し改稿したものです。
橘新太――彼は、ちょっと変わった青年だった。
彼の血筋からしてその変わりようはさることながら、わたしにとっては今後死ぬまで忘れることはできないだろう強烈にして鮮烈な人物である。
世間ではイケメンの部類に入る端正な顔立ち。背も高く、短く整えた黒髪のおかげで爽やかな好青年といったところ。だけど笑ったときに目尻が下がってちょっと子どもっぽく見えたりする。彼と知り合ったのはわたしが十八歳のときで、向こうは二十二歳。女と男。大学生と社会人。これくらいの条件なら出会い方なんて世の中ありふれている。けれど、それでもわたしたちみたいなのは早々ないとも思っている。なんたってこの科学文明極めれりの現代で、わたしが神隠しに遭ってしまったわけなのだから。
三月三日。
あの日は世間でいうところの雛祭りの日であり、まだ桜の蕾も固い時期。二日前に高校を卒業して、進学先の大学がある田舎町へ越してきた矢先であった。駅から目的のアパートまでスマホの地図をたよりに歩いていて、ふと顔を上げたら――夕闇の森の中に立っていた。
そこからの彷徨い歩く時間といったら果てしなかった。持っていたスマホは森に来た時点で画面が真っ暗になり使い物にならなくなったし、歩けど歩けど道も標識も出てこない。人もいない。何より怖かったのは、ずっと夕闇であったこと。
ただでさえ夕方といったら寂しさを煽る時間であるというのに、それが長く永く続いていた。時計はなくても腹時計的に時間が経過しているのはなんとなく察せられていたが、昼中の駅前からいきなり夕方になるのもおかしなことだった。まぁぐだぐだと語っちゃいるが、つまりわたしは参っていた。お腹も空いて足も疲れて、半泣きになっていた。だから最終的には森の中で膝を抱えて座り、「これは夢だ。絶対夢だ」と某アニメ映画の主人公みたいに自分を誤魔化すしかなかった。そうしているうちに寝落ちしてしまったのは、ある意味肝が据わっていたなと思う。
――どれくらい眠っていただろう。ふと気がついたのは、耳慣れない鈴のような音を聞いた時だった。
シャン、シャン、と一定の間隔で聞こえたそれは、意識がハッキリしてくるにつれて錫杖の音だと分かった。それと同時に、わたしは誰かに負ぶわれていることに気づいた。
男の広い背中だった。カッターシャツ越しでも分かる適度に筋肉がついた肩、しっかりと抱え上げている腕、安定感のある足取り。錫杖はわたしのお尻の下に回してずり落ちないように持っていた。歩くたびに弾みで遊輪が揺れて先ほどの音を出していたのだ。
わたしは駅前から共に連れてきていたキャリーがないことに気づく。どうやら置き去りにされたらしかった。
「あ、気がついた?」
背中越しに身動きしたのが分かったのだろう。なだらかな斜面を下りながら、柔らかな声に話しかけられた。
「いや~大変だったね。怖かったでしょ? いきなりこっちに飛ばされちゃったから、わけ分かんなかったよね。しかもキャリーなんか持ってさ。さすがに君一人背負うのが精一杯で置いてきちゃった。あ、お腹空いてない? コンビニで肉まん買ったげる。山に入ってから何も食べてないっしょ? こういう時ほど食べる肉まんってのは美味いもんよ~、もうほっくほくのはっふはふで疲れた体に沁みるから! あーでも肉まんもいいけどピザまんもいいんだよなぁ。タイミング良かったらチーズのびるからね、アレ。超レアだけど」
まっことよく喋る。しかもまだ顔も合わせてないので初対面ともいえない。他人が他人を背負って歩いているよく分からないこの状況で、彼は滔々とコンビニのピザまんがいかほどに美味いか語り始めた。混乱である。寝起きのわたしの頭には「なんだコイツ」しか頭に浮かばなかった。人によっては頭おかしいとすら思うだろう。思って正解だよ。
「でもホント、無事でよかったよ。君を見つけてまだ息があると分かったときは心の底からホッとした。でもこの山ってやっぱ危ないから、これからは近づかないようにね」
ひとしきり喋り倒した後、彼は何気なくこちらを振り返った。ドン引きから一転、思わず息を呑んでしまうほどの整った顔立ち。綺麗な微笑。反則だ。やっべぇ性格と見た目が乖離し過ぎて、頭が気味悪がったらいいのか恥じらったらいいのかこんがらがった。にっちもさっちもいかず口をぱくぱくさせるしかなかったわたしは、つとその時、彼の前方でナニかが動いた気がして目を凝らす。ギョッとした。
「……あ、あの、あなたの……」
「ん? 名前? 知りたいの? ふふふ……さては俺のこと好きになっちゃったかね」
「や、今そういうのいいんで」
「あ、バッサリ言う……」
「その……あなたの前にいる、ソレは……人ですか」
彼の前には全身真っ黒に覆われた影が立っていた。あたかも足下から延びる影がそのまま起き上がったかのような出で立ちで、ひょろりと細長く青年の背丈をゆうに超えている。襲ってくる気配もなければ離れる様子もなかった。とにかく見たことがない異形で気持ちが悪く、そして何より、深い地の底から這い上がってくるような恐怖が体を締めつける。
本能が警告している――ここから逃げろと。
関わっちゃいけないものが、ここにいる。
もしかしたら、この青年も危険かもしれない。いやもうすでに怪しいけど。
「ああ、この人」
青年は足を止め、わたしの視線を追って目の前に立っている黒い人影に目を滑らせる。そのまま僅かに沈黙し一つ吐息を漏らす。それだけだった。青年は何ごともなかったかのように再び森の中をゆっくりと歩き出した。
「大丈夫、この人は何もしないよ。ただ迷っただけだ。あとで話を聞いてみる」
「……人なんですか」
「人には見えない?」
「見えないです」
「そっか」
青年はこちらに顔を向けた。
「俺、橘新太っていうんだ。君は?」
唐突に名を聞かれ、わたしは戸惑いながら小さく答える。
「……よ、黄泉野七瀬です……」
「黄泉野……変わった苗字だね」
彼はそう言ってニカッと笑った。
「七瀬ちゃん。大変な目に遭ったばかりで悪いんだけど、一つ言っておく。――君はこのままだと確実に呪われる」
…………………………ほう。
「呪われるんですか」
「呪われるんです」
「誰が」
「君がだ」
だからね、と青年こと橘新太は一つ咳払いしてわたしに言った。
「七瀬ちゃん、俺に恋してみない?」
――これが、わたしと橘新太との出会い。
もちろんわたしはこの時、即座に「結構です」と言ったのだけど、残念ながらこの関係はここで終わるはずもなく。
彼は、最悪な形でわたしの記憶に残ることとなる。