泡沫の夢
これ↓ の短編です。
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一か月早い完結記念とでも思ってください。
今回は本編読了後の方が楽しめると思います。
ある初夏の放課後。
大型連休も明け、すっかり暖かくなった空の下、僕らは河川敷の斜面に横並びで座り込んでいた。
「今日は屋外スケッチをする」
美術室に訪れた僕に、少女は開口一番そう伝えた。
肩に提げられたのはいつか見た持ち運び用の水彩セットだ。
いつものように、彼女の代わりにそれを持つ──彼女はとても非力だった──と、僕らは学校近くの河川敷へ足を向ける。
おおよそ、徒歩五分ほど。
到着すると、土手の乾いた草花の上に二人がかりでレジャーシートを敷き、揃って腰を落とした。
少女はすぐにでもスケッチを始めてしまったために、僕は暇になってしまう。
だが、それもいつも通りであるのだ。そうして、僕は膝を抱え込んで微睡み始めた。
風が頬を優しく撫でる。
水沿いだからか、はたまた、もうすぐ日が沈むからか、それは少しだけ冷たい。
川の延長線上にある夕日が、水面を赤く輝かせていた。
「……なあ、君。そろそろ終わりにしないか?」
顔を上げた僕がそう言うと、右隣に座っていた少女は、数時間振りに口を開く。
「もう少しだけ待ってくれ。できるなら、今日で描き終わらせたいんだ」
「……それ、本当に『もう少しだけ』か?」
覗き込みながら問えば、彼女は気まずそうに顔を背けた。
「おい」
「嘘は言ってないさ。人によって、『ちょっと』の基準は違う。だから、わたしにとって、一時間が『もう少しだけ』であるのは何らおかしくない。それに、明日に持ち越して、視点が変わってしまうのは避けたい。ね、仕方がないだろう?」
「六時なんだが」
「……なる早で終わらせる」
意地でも描き続けるつもりだな。
僕は頬杖をついたまま、溜息を吐いた。
思い直してみれば、彼女が妥協することはありえない。
殊更、絵画に至っては、一度描き始めれば、てこでも動かなくなる。
集中力が高いというか、没頭しているというか。
まるで、ずっとそれしか見えていないようだった。
最後まで付き合うことを決意した僕は、眠気覚ましに少女の絵の制作過程を眺め始める。
彼女が左手に持つのは、水彩用の絵筆。
リス毛だっただろうか、その穂先は柔らかに色を落とす。
画板の上に乗った水彩紙には、寸分変わらずに目前の光景が映し出されていた。
最も目につくのは青だった。
広い川、遠い空、新緑の木々、それのどれもが違う『青』。
水面に反射した光は七色となり、青一色の中に鮮やかな色彩を生み出している。
透明水彩は、色の塗り重ねにより真価を発揮するというが、たった十六色からこれまで多彩な表現ができるものなのだろうか。
絵に関しては何も知らない僕は、彼女の才に驚くばかりだった。
だから、その一言が漏れてしまったのだろう。
「……君は、『天才』なんだな」
筆の動きが止まる。
群青が、穂先から押し出されるように広がった。
「……聞き飽きた賞賛だよ。まったく、人間というものは、どうも同じことしか言えないらしい」
怒りか、呆れか。
負の感情しか表れない声色は、彼女が心の底からそれを嫌っていることが読み取れた。
正直、意外だった。
まだ一か月ばかりの付き合いであるが、彼女がどのような人物であるかは、おおよそ把握している。
甘えたがりの褒められたがりで、大人しそうな容姿に反して積極的な、どこか掴みようがない少女。
一言で表すならばそんな人間だったが、僕が知る彼女の情報を脳内で箇条に書き出せば、その数は両手の指では足りなかった。
だからこそ、『意外』だったのだ。
確かに、そんじょそこらの他人と比べれば、僕は彼女のことを知っているかもしれない。
けれど、彼女の理解者であるかと問われれば、それはまた別の話である。
今だって、こうやって彼女が嫌う言葉を口にして、彼女を不快にさせている。
本当の理解者であれば、そんなことはしないだろう。
結局のところ、僕は自惚れていたのだ。
たった一か月ともに過ごしただけで、彼女のすべてを理解できた気になっていた。
本当は、ただ表面的なことしか知らないのに。
彼女と出会ってからの日数を考慮すれば、極々当然のことではあるのだが、僕はその事実に少しだけ動揺していた。
内心を誤魔化すように悪態をつく。
彼女は軽口の押収が好きだった。
「それだけ、君の絵が素晴らしいってことだ。素直に受け取れよ、捻くれ者」
「価値のない言葉を受け取って何になるんだい? わたしは勿論、相手にも利はないじゃないか」
少女は再び、手を動かし始める。
だが、その筆運びはどこか鈍い。
「価値って……。褒め言葉ってのは、そんな物差しじゃ測れないものだろ」
「測れるさ。この世界にあるすべてのモノには『価値』が存在するじゃないか」
「……そうか?」
「そうだよ。そうでなければ、わたしたちは物事を選ぶことはできない。褒め言葉に関して言えば、『褒める』ことに焦点が合っているのだから、受け手がどう思うかによって価値が変化するだろうね。つまり、受け手が価値がないと思えば、どれだけ上品に飾った言葉だとしても、途端に屑になってしまうのさ。……まあ、『それを理解した上で』ということなら、これ以上何も言うことはないけどね」
言葉、すなわち言語は、人間が他者との意思の疎通のために作り出したものである。
ただの鳴き声がここまで多くの意味を持つのは、人間の並外れた知能あってこそだ。
そして、その知能は言葉の裏にある真意まで見抜いてしまう。
彼女が『天才』という言葉に価値がないと主張するのは、『褒める』という表面的な行動と、その背後にある嫉妬や侮蔑、または無感動によるものなのだろう。
人との関わり合いが極端に薄い彼女でも、そのような手合いの人間に会ったことはあるらしい。
何か思うことがあったのか、少女はふと手を止めた。
「……ねえ、きみ。きみはさ、天才って何だと思う?」
唐突にその問いに、僕はすぐ答えることができなかった。
数秒考えて、月並みな回答を口にする。
「真似出来ないような所業を成し遂げる人、あたりか」
「うん。でも、それは『天才』以外もできるだろう」
「……どういうことだ?」
僕は彼女の言葉を理解できず、首を傾げた。
微笑んだ少女は、また筆を動かした。
「こうやって色を乗せたり、線を描いたりなんて、誰にでもできることだ。特段難しいわけでもない。きみのいう『天才』であるわたしが描いた線と、きみが描いた線の区別がつくと思うかい?」
首を振る。
そういう専門家でもなければ、線一つで描き手を判断することは不可能だ。
「それと同じさ。『天才』であっても、『凡人』であっても、生み出す結果さえ見れば変わらない。……わたしはね、他人に向ける『天才』という言葉は、努力しないことへの言い訳、そして、他者への不理解でしかないと思うんだ」
自分より優れた者を『天才』という枠組みに押し込めることで、人間は自身の尊厳を守ろうとする。
理解の埒外の存在とすれば、自分が劣っているなんて思わなくて済む。
それはきっと、人間として個人を確立するために避けられないことなのだ。
「……なら、君にとっての『天才』は何なんだ」
筆は止まらない。彼女の黒い瞳は、膝の上の画板にのみ向かっている。
「強いて言うなら──夢を叶えられる人、かな」
後に知ったが、少女は生まれた頃から病弱で、長くは生きられない身体だった。
彼女があの時、「夢を叶えられる人」と言ったのは、夢を叶えられないと、夢を叶えられる時間がないと理解していたからだろう。
僕が彼女と出会い、過ごした一年。
あまりにも短い日々だが、色彩に満ちた彼女が、何者でもなかった無色透明の僕を変えるには、十分すぎる時間だった。
君の言葉が、僕を変えた。
君は、僕の半身で、僕の運命だった。
だから、僕は君が描いた夢を叶えたい。
君の願いが、僕の願いになったあの日から、ずっと。
君の夢が、僕の夢だったのだ。




