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Aルート

泡沫の夢

作者: 四ノ明朔
掲載日:2025/09/01

これ↓ の短編です。

https://ncode.syosetu.com/n4584jl/


一か月早い完結記念とでも思ってください。

今回は本編読了後の方が楽しめると思います。

 ある初夏の放課後。

 大型連休も明け、すっかり暖かくなった空の下、僕らは河川敷の斜面に横並びで座り込んでいた。



「今日は屋外スケッチをする」



 美術室に訪れた僕に、少女は開口一番そう伝えた。

 肩に提げられたのはいつか見た持ち運び用の水彩セットだ。

 いつものように、彼女の代わりにそれを持つ──彼女はとても非力だった──と、僕らは学校近くの河川敷へ足を向ける。


 おおよそ、徒歩五分ほど。

 到着すると、土手の乾いた草花の上に二人がかりでレジャーシートを敷き、揃って腰を落とした。

 少女はすぐにでもスケッチを始めてしまったために、僕は暇になってしまう。

 だが、それもいつも通りであるのだ。そうして、僕は膝を抱え込んで微睡み始めた。


 風が頬を優しく撫でる。

 水沿いだからか、はたまた、もうすぐ日が沈むからか、それは少しだけ冷たい。

 川の延長線上にある夕日が、水面を赤く輝かせていた。



「……なあ、君。そろそろ終わりにしないか?」



 顔を上げた僕がそう言うと、右隣に座っていた少女は、数時間振りに口を開く。



「もう少しだけ待ってくれ。できるなら、今日で描き終わらせたいんだ」

「……それ、本当に『もう少しだけ』か?」



 覗き込みながら問えば、彼女は気まずそうに顔を背けた。



「おい」

「嘘は言ってないさ。人によって、『ちょっと』の基準は違う。だから、わたしにとって、一時間が『もう少しだけ』であるのは何らおかしくない。それに、明日に持ち越して、視点が変わってしまうのは避けたい。ね、仕方がないだろう?」

「六時なんだが」

「……なる早で終わらせる」



 意地でも描き続けるつもりだな。

 僕は頬杖をついたまま、溜息を吐いた。


 思い直してみれば、彼女が妥協することはありえない。

 殊更、絵画に至っては、一度描き始めれば、てこでも動かなくなる。

 集中力が高いというか、没頭しているというか。

 まるで、ずっとそれしか見えていないようだった。


 最後まで付き合うことを決意した僕は、眠気覚ましに少女の絵の制作過程を眺め始める。

 彼女が左手に持つのは、水彩用の絵筆。

 リス毛だっただろうか、その穂先は柔らかに色を落とす。

 画板の上に乗った水彩紙には、寸分変わらずに目前の光景が映し出されていた。


 最も目につくのは青だった。

 広い川、遠い空、新緑の木々、それのどれもが違う『青』。

 水面に反射した光は七色となり、青一色の中に鮮やかな色彩を生み出している。


 透明水彩は、色の塗り重ねにより真価を発揮するというが、たった十六色からこれまで多彩な表現ができるものなのだろうか。

 絵に関しては何も知らない僕は、彼女の才に驚くばかりだった。


 だから、その一言が漏れてしまったのだろう。



「……君は、『天才』なんだな」


 筆の動きが止まる。

 群青が、穂先から押し出されるように広がった。



「……聞き飽きた賞賛だよ。まったく、人間というものは、どうも同じことしか言えないらしい」



 怒りか、呆れか。

 負の感情しか表れない声色は、彼女が心の底からそれ(・・)を嫌っていることが読み取れた。


 正直、意外だった。

 まだ一か月ばかりの付き合いであるが、彼女がどのような人物であるかは、おおよそ把握している。

 甘えたがりの褒められたがりで、大人しそうな容姿に反して積極的な、どこか掴みようがない少女。

 一言で表すならばそんな人間だったが、僕が知る彼女の情報を脳内で箇条に書き出せば、その数は両手の指では足りなかった。


 だからこそ、『意外』だったのだ。

 確かに、そんじょそこらの他人と比べれば、僕は彼女のことを知っているかもしれない。

 けれど、彼女の理解者であるかと問われれば、それはまた別の話である。

 今だって、こうやって彼女が嫌う言葉を口にして、彼女を不快にさせている。

 本当の理解者であれば、そんなことはしないだろう。


 結局のところ、僕は自惚れていたのだ。

 たった一か月ともに過ごしただけで、彼女のすべてを理解できた気になっていた。

 本当は、ただ表面的なことしか知らないのに。

 彼女と出会ってからの日数を考慮すれば、極々当然のことではあるのだが、僕はその事実に少しだけ動揺していた。


 内心を誤魔化すように悪態をつく。

 彼女は軽口の押収が好きだった。



「それだけ、君の絵が素晴らしいってことだ。素直に受け取れよ、捻くれ者」

「価値のない言葉を受け取って何になるんだい? わたしは勿論、相手にも利はないじゃないか」



 少女は再び、手を動かし始める。

 だが、その筆運びはどこか鈍い。



「価値って……。褒め言葉ってのは、そんな物差しじゃ測れないものだろ」

「測れるさ。この世界にあるすべてのモノには『価値』が存在するじゃないか」

「……そうか?」

「そうだよ。そうでなければ、わたしたちは物事を選ぶことはできない。褒め言葉に関して言えば、『褒める』ことに焦点が合っているのだから、受け手がどう思うかによって価値が変化するだろうね。つまり、受け手が価値がないと思えば、どれだけ上品に飾った言葉だとしても、途端に屑になってしまうのさ。……まあ、『それを理解した上で』ということなら、これ以上何も言うことはないけどね」



 言葉、すなわち言語は、人間が他者との意思の疎通のために作り出したものである。

 ただの鳴き声がここまで多くの意味を持つのは、人間の並外れた知能あってこそだ。

 そして、その知能は言葉の裏にある真意まで見抜いてしまう。

 彼女が『天才』という言葉に価値がないと主張するのは、『褒める』という表面的な行動と、その背後にある嫉妬や侮蔑、または無感動によるものなのだろう。

 人との関わり合いが極端に薄い彼女でも、そのような手合いの人間に会ったことはあるらしい。


 何か思うことがあったのか、少女はふと手を止めた。



「……ねえ、きみ。きみはさ、天才って何だと思う?」



 唐突にその問いに、僕はすぐ答えることができなかった。

 数秒考えて、月並みな回答を口にする。



「真似出来ないような所業を成し遂げる人、あたりか」

「うん。でも、それは『天才』以外もできるだろう」

「……どういうことだ?」



 僕は彼女の言葉を理解できず、首を傾げた。

 微笑んだ少女は、また筆を動かした。



「こうやって色を乗せたり、線を描いたりなんて、誰にでもできることだ。特段難しいわけでもない。きみのいう『天才』であるわたしが描いた線と、きみが描いた線の区別がつくと思うかい?」



 首を振る。

 そういう専門家でもなければ、線一つで描き手を判断することは不可能だ。



「それと同じさ。『天才』であっても、『凡人』であっても、生み出す結果さえ見れば変わらない。……わたしはね、他人に向ける『天才』という言葉は、努力しないことへの言い訳、そして、他者への不理解でしかないと思うんだ」



 自分より優れた者を『天才』という枠組みに押し込めることで、人間は自身の尊厳を守ろうとする。

 理解の埒外の存在とすれば、自分が劣っているなんて思わなくて済む。

 それはきっと、人間として個人を確立するために避けられないことなのだ。 



「……なら、君にとっての『天才』は何なんだ」



 筆は止まらない。彼女の黒い瞳は、膝の上の画板にのみ向かっている。



「強いて言うなら──夢を叶えられる人、かな」



 後に知ったが、少女は生まれた頃から病弱で、長くは生きられない身体だった。

 彼女があの時、「夢を叶えられる人」と言ったのは、夢を叶えられないと、夢を叶えられる時間がないと理解していたからだろう。

 

 僕が彼女と出会い、過ごした一年。

 あまりにも短い日々だが、色彩に満ちた彼女が、何者でもなかった無色透明の僕を変えるには、十分すぎる時間だった。


 君の言葉が、僕を変えた。

 君は、僕の半身で、僕の運命だった。


 だから、僕は君が描いた夢を叶えたい。

 君の願いが、僕の願いになったあの日から、ずっと。

 君の夢が、僕の夢だったのだ。

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