数ヶ月後には婚約者ではなくなる人を、温泉旅行に誘ってみた
なろうラジオ大賞投稿作品のため、1000字の超短編です。
魔法学園の放課後、二人きりの教室で、わたしは数ヶ月後には婚約者ではなくなる人を見つめた。
彼の鉱石のような濃紺色の瞳は、窓から差し込む夕日を受けてきらめいて、魔法のように美しい。シンプルにいうなら、わたしの婚約者である人は、信じられないほど格好良くて魅力的だ。
わたしは彼に何度目かになる誘いをかけた。
「ねえ、いいでしょう? 温泉旅行に行きましょうよ」
前世の記憶があるというわたしの話を唯一信じてくれている彼は、眉間の皺をまた一本増やした。
なにせ、魔法が生活全般を支えているこの世界では、お風呂に入るという習慣がないのだ。
清浄魔法は誰にでも簡単に使えるし、自力でできない場合でも専用の魔石が安価で手に入る。わざわざ湯を沸かしてそこに全身を浸そうとは誰も考えない。魔法を使えば一瞬で済むのに、裸になって大量の湯に入ろうという変人はいない。
それはまあ、前世で苦学生だったわたしも、バイトでくたくたになった後はお風呂が面倒で仕方なかったものだから多少は気持ちはわかる。便利さも認める。
だけど温泉は別だ。前世で両親がまだ生きていた頃、家族旅行で行った温泉は最高だった。
今世ではお嬢様として生まれたわたしは、最近になって我が家が所有する山の中で温泉スポットを発見したため、大喜びで目の前の彼を誘っているというわけだ。こんなこと、彼以外にはいえないしね。
なにも、今すぐにというわけではない。数ヶ月待てば春が来て、わたしたちは学園を卒業する。そのとき彼はわたしの婚約者ではなくなる。温泉旅行はその後の話だ。
卒業したら大人と認められて、今より自由に動けるのだから、二人きりで辺鄙な山の中へ出かけることだってできるだろう。
「君は考えが甘い。そう簡単にいくものか」
「心を読まないでよ」
「これは経験則だ。君はいつも楽天的すぎる」
彼は渋い顔をした。きっと卒業後からしばらく降りかかるごたごたについて考えているのだろう。
「初夏がいいと思うの。その頃には生活も落ち着いているだろうから」
「……一通り考えた上で問うが、君は男を旅行に誘う意味をわかっているのか?」
「もちろん」
わたしは思わず笑い出して、邪悪にふふと囁いた。
「初夏の頃には慣れっこになっているんじゃない?」
彼は頭を抱えてうめいた後、かすかに頬を赤く染めて頷いた。
「わかった。温泉というものに付き合おう」
「やった!」
わたしは歓声を上げた。
「じゃあ、新婚旅行は温泉で決まりね!」
数ヶ月後には夫になっている人を、温泉旅行に誘ってみた話