92,
第4章『死神の旋律』スタート!
――戦線歴2120年 5月20日
「おとうさん!きのうローリエが仕込んだパイ生地知らない!?」
「へ?なに、パイ生地?」
時刻は朝の四時。“兵器”たちですら早朝巡回の者たち以外は寝ている時間だというのに、《ひととき亭》の店内は騒々しい。
パタパタと小さな足音が近づいてくると思ったら、作業場で石炭をカットしていたスグルのもとに、困ったように眉根を下げたローリエが現れる。
「おねえちゃんとイツキさんの朝ごはんにつかうの。今日はごはん食べるって、イツキさん言ってたから……」
「ボウルに入ってたやつなら、台所に置きっぱなしになってたのを冷却庫の中に入れといたが……」
「え!?ローリエ出しっぱなしにしてた?」
ローリエは大きな目を零れ落ちそうに見開く。パタパタとまた駆けていく足音が、僅かに遠のいて――
「あったー!おとうさん、ありがとう!」
台所から嬉しそうな声が聞こえ、スグルはふっと微笑んだ。
しばらくすると、美味しそうな匂いが作業場にも漂ってくる。
――ミートパイだな……
パイ料理はローリエの十八番だ。スグルには真似できない料理の腕は、どう考えても母親に似たのだろう。
仕込みを終わらせて作業場の外に出ると、開け放った窓から爽やかな風が吹き込んでくる。
バックヤード兼父娘のリビング。窓のすぐ脇の小さなテーブルには花瓶が乗せられていて、昨日ローリエが摘んできたたんぽぽが生けてある。
スグルは、その黄色の花びらにそっと触れると――その横に置かれている写真立ての中の女性に手を合わせた。
――おはよう
レースカーテンがひらりと揺れる。
風にさらわれたパイの焼ける匂いは――彼女に届くだろうか。
<><><>
「ねえ、おとうさん!」
「ん?」
仕込みを一通り終わらせたふたりは、リビングで朝食をとっていた。食パンにバターを塗りながら、ローリエがスグルを見上げる。
「きょう、なんの日か覚えてる?」
「なんの……日?」
――しまった。何かあったか……!?
スグルは慌てて思考を巡らせる。学校は休みだし、ローリエが何か友達と約束があるとか、か?
眉間にシワを寄せたスグルを見て、ローリエは呆れたようにため息をつく。
「おとうさん、ほんとに覚えてないの?」
「う〜。すまん」
困ったように頬を掻くスグルに、ローリエはクスクスと笑う。
「きょうは、おとうさんの誕生日だよ!」
「――そうだったか?」
この歳になると、誕生日だの年齢だのあまり気にならなくなってくる。しかし、ローリエから見るとその姿勢はあまりにも無頓着だった。
「もお〜っ、ちゃんとして!きょうはね、ローリエがケーキ作るからねっ」
「そうか……ありがとう」
スグルが笑うと、ローリエも嬉しそうに笑った。
<><><>
――しかしなぁ……
朝食後の後片付けをしながら、スグルは独りごちる。
「誕生日ってことは……アレが来るってことだよなぁ」
蛇口から流れる水が、窓から入ってくる太陽光を反射してキラキラと光る。その様子を眺めながら、スグルは眉を寄せた。
「嬉しいはずなんだけど……」
その情熱をもっと別に向けられないのか。と、思わず突っ込みたくなる連中が、今日はわんさとやってくる。
「おとーさーん!お店開けるよー」
「頼む!」
ローリエの声にこたえると、すぐにドアベルの音が聞こえた。
「あ!いらっしゃいませー」
すぐに客が来たのか、ローリエの声がまた聞こえた。
スグルはそれを確認すると、手を手巾で拭って店内に続くドアを開けた。