90,
※今更かもですが、90話・91話とちょっぴり流血表現があります
『おねがい……この子だけは』
あたたかい腕に、ぎゅっと抱きしめられる。
どうしてそんなこと言うんだろう。
『……天音も、レイナも関係ないのにっ』
歯ぎしりの音。
こんな怖い顔をしたお父様を見たのは、この一回が最初で最期だった。
――お母様、あったかい。
心地よさに目を瞑る。
今思えば、あのときの私はバカみたいに能天気だったんだ。
『準備はできたか?巫剣』
ここで聞こえる男の声。
この状況の元凶。あるいは、私が殺したかった男。顔を上げれば、広間の端の大きな椅子に座るその男と、その周りに座る人々。
『最期に、なにか言い残すことは?』
男の声とともに、私達の方に黒い服を来て仮面をつけた人影が現れる。
お父様は、お母様ごと私を抱きしめる。
『――せめて、レイナと天音は……』
『それは無理な相談だ、巫剣』
嘲笑が辺りにこだまする。お母様の体が強張る。
『『高貴なる人々』の掟を忘れたか?長の罪は一家の罪。――奥様もご息女も、見逃すわけにはいかないなぁ』
高笑い。
何が楽しいんだろう。何が楽しくて、こんな
『……罪を犯したのはお前だ、五十嵐。僕を殺した程度で、お前の政権が崩壊するまでの時間は伸びないだろう』
お父様の声。何を言っているのか、あのときはよく分かっていなかった。
――今ならわかる。第四代大元帥は、ただのクズ野郎だった。
『っ――もういい、殺せっ!』
五十嵐の声に、仮面の男たちがどんどん近づいてくる。
『冬樹……』
お母様の声に、お父様は悲しげに笑う。
『ごめんな……。守ってやれなくて、ごめんな』
お父様の手が私の頭に伸びる。
これが大好きだった。優しく撫でてもらえるのが、好きだった。
『巫剣 冬樹。お前からだ』
仮面の男の低い声が言う。途端、お母様が私の頭を包み込むように抱きしめる。お母様のニットの胸しか見えない。
「おかあさま……?」
『見ないで。――お願い』
何も見えない。聞こえたのは五十嵐の高笑いと――湿った、鈍い音。
お母様はきっと、私には見せなくても自分はじっと見ていたのだろう。お父様が事切れるその瞬間を、じっと。
『巫剣 レイナ』
『お願い……天音だけはっ』
今にも泣きそうな声。返事はない。お母様は私から手を離す。
視界に入ったのは、お母様の顔と――その後ろに横たわる、お父様。
「おとうさま、どうしたの?」
私はバカだ。そんなことを聞いている暇があったら……
『ごめんね。天音』
お母様は笑う。お父様の体の下から、赤い色が染み出してくるのが、ちらりと見える。
「おかあさま?」
『ごめんね。生きさせてあげられなくて、ごめんね』
なんでそんなことを言うんだろう。
「……?」
『天音。ちょっとだけ、お別れね』
嘘だ。ちょっとじゃ無かった。
お母様が優しく笑う。
『天音、』
――お誕生日、おめでとう
その瞬間、湿った鈍い音がまた私の聴覚を支配した。