89,
「?」
ぼんやりと、意識が浮上する。
またあの悪夢を見ていたような……いや、現実?よくわからない。
ただ――
「……落ち着いたか?」
何故か……イツキの声が、耳のすぐそばから聞こえた。
「!?」
天音が顔をあげると、目の前にイツキの顔があった。驚きのあまりぱちぱちと瞬きする天音を、イツキは眉を寄せて眺める。
「大丈夫か?」
イツキの問いに、天音は一瞬きょとんとした後、はっとしたように目を見開いてうなずく。
「ごめんなさい、私……」
「急に様子がおかしくなったから焦ったが」
ふっと息をつくイツキ。天音は気まずさのあまり顔をうつむけて――ようやく、自分がイツキに抱きしめられていることに気づく。
「ぇ?」
「――わるい。なんか、パニックになってるみたいだったから」
イツキは呆然とした天音の顔を見て、バツが悪そうに目をそらすと、彼女の体をそっと放す。天音はふらりと彼から離れると、思わずソファーの背に、ぼすっ!と顔を埋める。
「……ごめんなさぃ」
弱々しい呟き。顔は見えないが、髪の隙間から覗く耳は真っ赤に染まっている。イツキはふいっと顔をそらすと、右手で黒い髪をかきあげた。
「それで、もういいのか?」
イツキの言葉に、天音はそっと顔を上げる。二人の視線があう。
「だいぶ……よくなりました」
ソファーに投げ出された天音の手から震えは消えていた。彼女は床に落ちたレンチを今度こそ拾い上げる。
「ほんとにもう、平気なので」
「……まじだろうな?」
イツキは疑り深く目を眇める。天音はただうなずいた。
「話、聞いてもらえたので」
それだけ言うと、天音は前のはだけたイツキのシャツに手をかける。イツキは特に抵抗もせず、されるがままにしている。
イツキの肩についた深い裂傷。再びそれをなぞる天音の指は震えることなく動く。しかし――天音の表情はまだ微かに強張っていた。
「……お前、この仕事向いてないな」
何気なくイツキはそう呟く。天音ははっと顔を上げて、困ったように弱々しい笑みを浮かべた。
「そう……ですね。仕事だからと思って、頑張るんですけど――大きな怪我は、やっぱりトラウマかも、です」
「“大したことじゃない”なんて、よく言えたな。このザマで」
「……ごめんなさい」
天音はますます下を向く。小さくなってしまった彼女を見下ろすと、イツキはそっと息をついて――
「っ!」
「まあ、嫌なこと思い出させた俺もいけないんだけどな」
おもむろに、天音の頭をそっと撫でた。
本来、人間はおろか動物にすら殺すときでなければ触れることができないイツキは、慣れない柔らかな感触に戸惑う。壊してしまわないように優しく、しかし勝手がわからずに拙く荒っぽい手付き。
いきなりのイツキの行動に、天音はあたふたと慌てる。
「あ……の?」
「――俺は死なないぞ?」
ふと、イツキはそう呟く。天音はピタリと身じろぎをやめて彼を見上げる。凪いだ紅い瞳が、じっと天音を見つめていた。
「この程度の怪我で死ぬほどヤワじゃない。――お前の両親になにがあったかは知らないが、少なくともお前の目の前では俺は死なないから……安心しろ」
そう言って、イツキは天音の髪を撫で続ける。天音は顔を伏せるとされるがままになっていた。
「本当、ですか……?」
「本音を言えば完璧な約束にはならないと思うが――この約束でお前が怖がらずに済むなら」
くしゃりと長い髪をかき混ぜられる感覚。荒いけど、たまらなく優しいその感覚に、天音はそっと息を吐きだして……
「約束、ですよ――」
小さな声でそう言って、委ねるように目を閉じた。