88,
「っ!?」
天音は自分の手を見つめて、明らかに狼狽した表情を浮かべる。
「……」
「ご、ごめんなさい……」
彼女は、じっと見つめてくるイツキの視線に気づくと、すぐに床に落ちた重いレンチを拾い上げようと手を伸ばした。
――しかし
「、イ、ツキさん……?」
天音が伸ばした腕を、イツキは手首を掴んで止める。力は強くないが、振りほどくこともできない。あっけにとられる天音の顔を少し見つめた後、イツキはその腕を引いた。
「わ……」
ソファーの上に引っ張り戻されて、ぱちぱちと瞬きをする天音。イツキは一瞬天音の手を見ると、顔を上げて彼女の目を見つめる。
「なんでこうなっている?」
天音の手の震えは、先程よりも明らかに激しくなっていた。天音はイツキから目をそらす。
「それは……」
「疲れて無理してるなら、今日はこれ以上直さなくていい」
イツキは淡々とそう言うと、天音の手をふいっと離して、腰のあたりにわだかまっているシャツを肩まで引き上げる。その様子を見て、天音は慌てたように彼の手を掴む。
「違うんです!無理なんて、していませんっ」
「じゃあこれはなんだ?」
イツキは、自分の手を握る白い手を見下ろす。
「こ……れは、」
天音は苦しげに眉を寄せて唇を噛む。手を掴まれているイツキには、彼女の手にぎゅっと力が入るのが伝わってきた。
「――なにをそんなに、怖がってるんだよ」
お互いが黙り込んだしばらくの沈黙の後、イツキの声に天音は伏せていた顔を上げる。紅い瞳と目が合う。
「事情があって、話すつもりがあるなら聞くが?――話したくないなら素直に今日はもう休め」
「っ……」
天音は逡巡する。
――正直、
「私にも、何がこんなに怖いのかわからないんです」
天音はイツキの手をそっと放して、どこか困惑したように独りごちた。
「わからないんです。……全部、もう気にならなくなったはずなのに」
「――全部?」
イツキが首を傾げる。天音ははっと口元を押さえた。
「いえ、あの……」
もごもごと口ごもる天音。イツキはしばらくその様子を眺めていたが、やがて天音のその手を口から剥がす。
「!?」
「わかるように話せ。じゃなきゃ理解できない」
イツキの言葉に、天音はまた困ったように眉を寄せる。
「大したことじゃないんです」
「別にいい」
天音をじっと見つめるイツキ。その視線を受けて、天音はぼそっと呟いた。
「――あなたが刺されるのを見て……両親が死んだときのことを、思い出して、」
こわかった。
天音の手がまた震える。イツキは言葉を発さない。
一回言葉にしてしまって、抑えが効かなくなったのだろうか。天音は堰を切ったように話し始める。
「両親も、後ろから……槍で突かれて死んだから、」
「私の目の前で、私を殺さないでって、処刑する人に言って、死んだ、から……」
――要領を得ない、不明瞭な天音の言葉は、どんどん切れ切れになっていく。表情は抜け落ちて、その蒼い目はガラス玉のように無感情に光を跳ね返す。
「私の、せいで、」
「……おい」
明らかに様子がおかしい。イツキは握ったままの天音の手を軽く揺する。彼女の目を覗き込むが、もう既にその目にイツキは映っていなかった。
「また、し、死んじゃうっ、て」
「落ち着け、」
「また……私のせいで――っ。私が、いたから」
私さえ、いなければ。
小さな声で繰り返すのは、自分を責めて傷つける言葉。天音の意識は、過去のトラウマに飛んでしまっている。
「ごめんなさい……ごめんなさい、ごめ……、」
びくびくと震える姿は、普段の冷静さからはあまりにもかけ離れていた。
苦しげで……あまりにも痛々しい。
イツキは思わず、彼女の両肩を掴んで――
「やめろ。もう、いい……」
気がつくと、天音の細い体を力を込めて抱きしめていた。