87,
階下の喧騒が、床から染み出してきているようだった。薄皮一枚隔てた遠い声と物音。微かに機械ランプが灯った薄暗いその部屋は、まるで別世界だ。
『カチャ……カタン、』
小さな金属音が嫌に耳に残る。イツキは背の低いソファーの上で、閉じていた目をそっと開いた。
目に映るのは修繕師の工房。何度か入ったことのあるそこは、相変わらずごちゃごちゃと物で溢れていて、それでいて息を潜めるように落ち着いている。僅かなグリスの匂いは、荒野に面した小さな窓から入ってくる風にかき消された。
「――ふぅ、」
ふと、後ろから小さく息を吐き出す音と、微かに身動ぎする気配がする。その直後、イツキの裸の背中にゆっくりと触れた小さな手は、この部屋の主――天音のものだった。
――天音を庇って刺された傷は、思っていたよりもずっと深いものだった。人間なら間違いなく即死だったであろうその傷を見て、百戦錬磨の修繕師であるはずの天音でさえも、絶句していたくらいだ。
『ごめんなさい。本当にごめんなさい……』
庇われた自分がいけないとでも思ったのだろうか。
憔悴した様子で何度も何度も頭を下げて謝る天音を止めるのに、それなりに時間がかかったことを、イツキはぼんやりと思い出す。
――びくんっ
ゆったりと流れていく時間の中、再びイツキが目を閉じかけたとき、突然天音の手が震えて背中の上で跳ねた。イツキは思わず後ろを振り返る。
「どうした……?」
イツキの声に、天音ははっと顔を上げる。
「いえ……あの、」
蒼い目がイツキの視線を避けるように不安定に揺れる。ほんの少し口ごもって、天音はふるふると首を横に振った。
「なんでもないです。――ごめんなさい」
そう言って再び作業に戻ってしまう天音を、イツキはしばらく眺めていたが、やがて小さく息を吐き出すと目を離して前を向く。
――なんでもなく無いな
イツキの背中を、小さな手が優しく撫でる。時折背中に触れる、ひんやりとした金属製の工具や無機質な機械の感触の中で、ひときわ柔らかく温いそれは感じ取りやすい。
だからイツキは、もうとっくに気づいていた。
――まだ震えてる……
天音の手は、イツキの修繕を始めてから、ずっと細かく震えていた。なにかにひどく怯えるような、弱々しい震え。
今だけじゃない。
庇われた直後、イツキの体の下で見せた怯えた目も、苦しげに笑っていたカイトを見たときの焦燥に満ちた眼差しも。
自分が傷ついたわけじゃないのに、自分の体が痛むのかのように天音はずっと怯えている。
「……背中は、終わりました、」
しばらくイツキが考えを巡らせている間に、背中の傷を塞ぎ終わった天音は、立ち上がるとイツキの前側にまわってくる。
「こっちも診せてください」
天音の手が視界に入る。ほっそりとした指が肩の裂傷をなぞる。少し顔を上げれば、彼女の眉間にぐっとしわが寄っているのがわかった。
何を言うでもなく天音は工具を持った手を動かす。いまだに震えているそれは、しかし正確に損壊を直していく。
しかし、
『ガシャンっ!!』
――震える天音の手が、手に持っていた工具を大きな音を立てて取り落とした。