82,
「っふ……ふは、はは……」
イツキの無表情を見て、カイトは笑う。
「あ〜あ。――負けちゃった、っ」
力が入らない体が、ズルズルと壁を伝ってずり落ちる。イツキはナイフの柄から手を離した。
カイトは、くたりと壁際に座り込むと、ヒューヒューとおかしな音をたてながら荒く息をついて、ぐっと天井を仰ぐ。
「やっぱり勝てないね。強いよ、イツキ。――今まで、勝敗は五分五分くらいだったから、今回はいけると思ったんだけど」
「負けるわけが無いだろう、俺が」
イツキの自信に満ちた言葉にカイトは吹き出す。
「完敗だぁ。あーっ、もう。悔しい、」
そう言いながらも、カイトは笑う。ただただ楽しそうに。
しかし、すぐに表情を歪めると、苦しげに咳き込む。思わず天音が駆け寄ろうとするが、イツキは彼女の前に腕を出してそれを止めた。カイトは荒い呼吸を繰り返しながら顔を上げる。
その表情は笑顔で――でも、今にも泣きそうだった
「僕の負け。――いいよ。もう、殺して」
その言葉に、イツキは黙って右腕をカイトに差し出そうと持ち上げた。しかし、その手を天音が押さえる。
「最後にひとつだけ、聞いてもいいですか?」
天音の顔を見てカイトは苦笑する。その緑色の目には、もう憎しみも怒りも無かった。
「鬼畜かよ、お嬢さん。――早く楽になりたいんだけど」
「……すみません。でもひとつだけ。あなたの言っていた『あの御方』って、誰ですか?」
天音の問いに、カイトは一瞬目を閉じる。しかし、すぐに天音を見上げる。
「僕も、本人を直接見たことはないから……詳しく、その人自体については知らない。――ただ。強大な力と、カリスマ性を持って――外部のアーティファクトのほぼすべてを束ねている……アーティファクトだ」
途切れがちな言葉でカイトは語る。天音は神妙な面持ちでそれを聞いていた。カイトがふっと微笑む。
「ごめん。このくらいしか、話せることが無い。僕は、結局人間への恨みだけで……動いていただけだから。――ただ、あの御方に言われたんだ、」
「何を、ですか……?」
「人間を滅ぼしたいなら……“首都”の修繕師を殺すべきだ、って」
カイトの言葉に天音は目を丸くする。不意に表情を消してカイトは天音を見つめる。その目は真剣だった。
「僕は、あの御方にとってはあくまで手駒のひとつに過ぎない。――だから、次いつ君を標的にした刺客が現れるとも限らない。……君のことはもう嫌いじゃないから、忠告しとく。気をつけな、お嬢さん。僕みたいなのはそこら中にいる」
「っ――、ありがとう、ございます……」
きゅっと唇を結んだ天音に、カイトは再び微笑む。
「結局、君の言ったとおりかも。ちゃんと助けてって言えていれば……もっと、違ったかな――っ」
カイトはまた咳き込む。息とともに溢れたグリスが、床にしみをつくる。それをしばらくじっと見つめた後、カイトはまた顔を上げた。
「ごめん、お嬢さん。君を殺しに来たやつが図々しいかもだけど、頼まれてくれない?」
「……何を、ですか?」
ほんの少しだけ身構える天音を、カイトはクスクスと笑う。
「ふ……。怖がらないでよ。難しいことは、言わないから」
カイトはそう言って、自分の左手に握ったままの“本体”――金色の短剣を軽く持ち上げて見せる。
「?」
「僕、結構自分の体を改造してるんだよね。アズマとか、その最大の産物なんだけど。――そのせいだと思うんだけど、動作とか構造にたくさん特異点があって。……多分、僕が灰になっても“本体”は消えないと思うんだ」
「!?……本体には、《死を運ぶ風》が効かないってことか……?」
イツキが目を丸くする。カイトは弱々しくうなずいた。
「たぶんね。自業自得さ。……だからさ、修繕師のお嬢さん、」
――僕の“本体”をもらってくれない?