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「ぅ、あ……」
――天音の喉から掠れ声が漏れる。
「チッ――。なんでこうなるんだ?」
カイトがイライラとそう言って、深々と刺さったナイフを引き抜き後ろに飛び退る。
そのナイフに、血は一滴もついていなかった。
――少なくとも、血は。
「イ、ツキ、さん……」
天音は荒い息の隙間で震えた声を絞り出す。
彼女に向かって走り出していたアキラが、驚愕で目を見開いたまま立ち止まる。
――その視線の先には、
「っふ――。怪我、してないだろうな……?」
苦痛に表情を歪めるイツキが、尻餅をついた天音に覆いかぶさるように倒れ込んでいた。
「なんでさ。邪魔しないでくれない?イツキ」
カイトが苦々しい顔で言う。イツキは体を起こすと苦しげに息を吐き出した。
「……っ、」
膝をついたままイツキはカイトに向き直る。そのおかげで、イツキの背中にナイフについているのと同じどす黒い潤滑油が溢れ出ているのが、天音にははっきりと見えた。
「イツキさ……。せ、なかがっ、」
「いい。このくらいじゃ死なない」
震える手で背中の傷を診ようとする天音を、イツキは冷静な声で止める。
カイトがため息をついた。
「修繕師が死んでないって……。君の『死神』の力はどうしたんだよ?」
「――これだけ世界は広いんだ。例外くらいいたって不思議じゃないだろ」
イツキの答えにカイトは、ぐしゃりと自分の髪をかき混ぜる。
「なんでさ、なんでみんな僕の邪魔をするんだっ!?これは正しいことだって、これが本当の“正義”なんだって……あの御方は言ってたのにっ」
「あの、おかた……?」
天音が呟く。カイトは細い緑色の目を大きく開いて、イツキを睨みつける。
「君ならわかってくれると思ってたのに!人間に傷つけられて、封印されて。――君は、君だけは僕の気持ちがわかるって、」
「――別に、わからないとは言っていないだろ」
冷静さを欠いたカイトの視線を、イツキは静かに受け止める。カイトは叫ぶのをやめた。
「お前の言う通り、俺は人間に散々な目に合わせられてきた。人間は守るけど、別に好きってわけじゃない」
「……ふ、はは、」
カイトが笑う。
「そっか……そうだよね。やっぱり、イツキならわかってくれる、「でもな」
しかし、イツキはすぐにカイトの言葉を遮った。
「俺は、人間が嫌いだとも言っていない」
――瞬間、カイトは微笑みが崩れないまま黙り込む。
「どういう……意味?」
「そのままの意味だ」
表情にそぐわず抑揚の無いカイトの言葉に、イツキはただ淡々と答えた。
「人間なんて、別に好きでも嫌いでもない。――そもそも、人間にもいろんなやつがいるからな」
イツキはちらりと天音を振り返る。彼女は驚いたように大きな目をさらに大きく見開いていた。その表情に、イツキは思わずふっと僅かに表情を緩める。
「俺の存在を否定して、壊そうと躍起になっていた製作者みたいなクソ野郎もいれば……、食べ物の好き嫌いもわからないような俺に、料理の味を教えてくれようとするガキもいるんだ」
それに。と、イツキはふらりと立ち上がる。天音が慌てて傷に障らないようにしながらも、その背中を支える。
「人を殺すしか能のない俺を、修理してくれるやつまでいる。――三百年と少し、この世界で生きてきて思うのは、この世界はまだまだ捨てたもんじゃないってことぐらいだな」