475,
「ソ、ル……これ、わたし、」
「うん――わかっているよ。全部君のものだ」
窓から離れたここは薄暗く、いつも賑やかな基地内のどこよりも静かだ。硬い木の扉には真鍮製のドアノブ。金色のベルはこの部屋の主を呼ぶためのもの――
「わたし……わたし、なんでこんな」
「混乱しているね。怖がらなくても大丈夫だから、まずは入ってみてごらん?」
涙があふれて止まらない。拭うことすらできない。ただぼんやりと滲む彩度の低い青の風景の中、ドアノブを掴んで回した。
――『***は……本当にいい子だな』
例えばそれは、私をここまでつくりあげてくれた人のもの。
――『***ちゃん。へえ、いい名前だね』
例えばそれは、いつも見守ってくれている人のもの。
「あ……あ、」
――『好きだ』
例えばそれは、この世界で一番愛しいひとのもの。
何故。
「どうして……こんな大切なこと、いっぱい……思い出せなかったの……?」
「……」
「私は誰? なんで――だって、私、」
「――ごめんね」
贖罪の声にはっと振り返る。仄暗い機械ランプの明かり。青に堕ちた風景。鼻を刺す機械油の匂いがまだ残る部屋の中に入ってこないまま、ソルは静かに首を横に振った。
「世界のために、“未来”のために君を犠牲にした。君という存在そのものを――全部、僕の力不足だ」
「……」
「もちろんわかっているよ。君がすべてを覚悟して『英雄』になる選択をしてくれたってことは」
「じゃあ……なんで私は、今」
ここにいるのだろうか。
記憶はおぼろげではっきりしない。曇り硝子を隔てたような曖昧な自分の存在。それでもなおはっきりとわかる。確かにあの瞬間、自分は消えたはずだった。
「君はこの世界最大の特異点にして、この世界で最も“神”に愛された贈り物だ。偶然、幸運――あまりにも都合がよすぎるが、僕にだってそう説明することしかできない。あとは――僕が君にしてあげられる最初で最後の罪滅ぼしだから」
扉を境界線にしてあちらとこちら。しばらく蒼の視線はじっと見つめあう。
「私は……誰?」
「僕からは教えてあげられない」
短い問いにソルは申し訳なさそうに眉を寄せて、しかしどこか超然とした穏やかな表情で見つめている。
「大丈夫だよ。君はすぐに全部思い出すことができる……君は愛されているから」
ふっと、ソルがまとう空気が揺らいだ。陽炎のようなわずかな揺らぎは次第に大きくなって、空間が捻じ曲がるようにゆっくりと動き始めた。
「っ、ソル!?」
「……時間だね」
ソルは笑っている。視界がかすむ――少しづつ周りの物の形が不確かになっていく。思わず手を伸ばすと、ソルは静かに頭を振った。
「行きなさい」
「っ……」
「君は愛されている。この世界のすべてから――たったひとりの誰かから。君を奪ってしまってすまなかった」
ぐにゃりとゆがむ輪郭。何もかもぼやけて不定形の青の塊になって落ちていく。底なしの沼のように溶け消えた風景が落ちて落ちて――ソルもその中にいた。
「待って……」
「すべて、元あった場所に戻るんだ。僕は還るし君も帰る、それだけのことだよ。でも全部君のおかげだ――君がいてくれたから、やっと終わることができる」
白む風景の中でソルはいつものように笑った。花の咲くような美しい笑顔は、儚く散る終わりにふさわしい。
「ありがとう――君がいてくれてよかった。最後に君に会えてよかった……僕もね、君のことを心から愛しているよ」
少しずつ感覚が消えていく。真っ白に飛んだ視界。手先の感覚はとうに失われていて――
音が消える瞬間、小さな笑い声が聞こえた。
『僕が愛する君と彼が、世界で一番幸せなふたりでありますように』
次回、いよいよ最終話になります。最後まで応援よろしくお願いします!