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「……」
独りでいることしかできなかった。
誰にも見せることのできない姿だった。誰にも見せたくない傷だった。誰にも見せたくない――私以外の誰にも、この感情は理解できないから。
「……」
“悲しい”は稚拙。“苦しい”だとこじつけ。“つらい”では置換不能。しかしこれら以上の言葉は知らないし、きっとこの世界には存在しない。だから口を噤む。真にこの心の中の荒れ模様を表現することができないのなら――私の中だけで消化してしまってもいいだろう。
「……」
わかってもらえないなら独りでいい。山小屋の中で吹雪が過ぎるのを待つように、この雨の音を独りで無視し続ける。道連れなんていらないよ――だってわかってもらえないんだから。
『ひとりで泣かなくていい』
嘘だ。
『君の周りには、君を愛するひとがたくさんいるんだ』
嘘だ。
嘘じゃないのは知っている。でも嘘だ。だって――だって、
「……天音」
薄暗い布団の中。涙で張り付いた瞼をこじ開けて、あなたが名前を呼んだ。
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「い、つき」
「おはよう」
疲れた目の下のうっ血と少し苦しげな息。頬の涙の跡。そっと頭をなでてやると、天音はきゅっと目を閉じた。
「なん、で?」
「……なんでもいいだろう」
――『君の修繕師様が苦しそうにしているよ。ほっといてないでさ、行ってあげなよ』
誰もいない廊下で、索敵にもかからずにいきなり後ろに現れたあいつはそう言って笑った。イツキが大鎌を出すよりも先にふらりと何処かに消えてしまった彼女が天音になにかしたのかと、そう思って慌てて工房に来てみれば――
「大丈夫か?」
頭から布団を被って苦しそうに眠っている天音の姿があった。原因はあのソルの“器”ではない。しとしとと降る雨と鬱々とした湿った空気。どこか既視感のある灰色の景色に、両親の墓の前で泣きじゃくる小さな後ろ姿を思い出したのだ。
――『今日は先生の工房には誰も近づかないように……』
今朝の軍議でローレンスが最後そう言った意味がわかった。4月3日――今日は天音の誕生日だ。
「あたま、いたい」
「薬は?」
「のんだ……やっぱり、きかない」
ぐったりと枕に頭を預けて、虚脱した蒼い目がふらふらとイツキを見ている。うまく呂律が回らず舌足らずになったか細い声に、イツキはそっと横になったままの彼女を覆いかぶさるように抱きしめた。
「……ふえ?」
「そんなにつらいなら、なにもひとりでいる必要は無いだろう」
気持ちはわかる。弱った姿なんて他人に見せるものじゃない。だって、わかってもらえないのに。
どうせそういうことなのだろうと、イツキは共感とほんの少しの同族嫌悪にため息をついた。
「今までもこうやって、ひとりで過ごしていたのか?」
「……」
黙ったまま小さくうなずく天音。イツキは体を起こして彼女を正面から見つめた。
「今から俺がいるから」
「……」
「今から――この先ずっと、俺がここにいる」
なにか言いたげな天音には何も言わせない。この先なんてものは無いかもしれないとか、そういうことは絶対に言わせない。
「お前の気持ちを完全に理解することはできない。すべてわかってやるだなんて、そんな傲慢なことは死んでも言えない。ただ、そばにいる」
「イツキ、」
「そばにいさせろ。ひとりで抱え込んで泣くな……俺だけは絶対にここにいるから」
過去になった今日で、すべてを失った。大切なものを全部失ってしまった彼女は、きっとまた失くしてしまうのが怖いだけなんだ。元から大切なものを持たなければ失くしてしまう心配もないから、そう思って彼女は自分の手で大切になりきらない未完成のモノを捨てる。
そんな馬鹿げたことさせてたまるか。
「……イツキ、ソルとおんなじこと言ってる」
「は?」
「ひとりで……泣かなくていいって……」
ぼんやりと虚ろにイツキを見つめる目は深い蒼色。かつて見た色とよく似ていて、でもまったく違う色。
「あんなのと一緒にするな」
「イツキが言ったほうが……説得力がある」
ふにゃりと、彼女が小さな笑みを浮かべた。ぎゅっと胸のあたりを鷲掴みにするようなこの感情の名前を、今のイツキは知っている。ようやく手に入れた、何よりも大切な感情だ。
「そうじゃなきゃ困る……」
小さな呟きは雨の音に消される。薄暗い灰色の景色に、ほんの僅かに色が乗った。




