465,
『**』
いつもぼんやりと霞んでしまって見ることのできなかった姿。不明瞭に滲んで思い出せなかった名前。とても大切なもので愛しいもので、それなのに絶対に思い出すことのできなかった――あなたの存在を。
『ルナ』
いざはっきりと思い出してみると、ソルが呼ぶ彼の名前はいつだって甘く柔らかかった。天音のものではないことはわかっているのに、まるで彼を愛していたかのような感覚にどっぷりと浸される。
神殿の広間でひとりぽつねんと佇むもの寂しげな立ち姿とか、あの薄暗い地下室で地図を睨む精悍な横顔とか、そういう天音は一度も見たことが無いはずの彼。
『ソル』
平坦な声色は彼女の名を呼ぶときだけわずかに優しくなる。肩を寄せて抱きしめて――私だってそんなふうに彼に触れたことは無いと、そんなふうにすら思ってしまう。自分と自分じゃないものの記憶が次第に曖昧になっていく――
「私じゃなくてもいいはずです」
私はソルではない。私は今この瞬間を生きる、ただの人間だ。
記憶の中で頬に触れる大きな手も、気遣うような甘い声もほんの少し自分よりも背の高い人影も、彼だが彼ではない。わかっている――わかっているのに。
それなのに、混同してしまうことはいけないことであると、よくわかっているはずなのに。
「私にこの世界を救うことはできません。私には未来予知の力はないし、なんでも分析できる力もないし……それに私は、ただの人間です」
思ってしまったのだ。人間ではなくアーティファクトだったら、正確にはアーティファクトのままだったら――もしかしたらずっと彼のそばにいることができるのかもしれない。もしかするとそれは天音ではないかもしれないが、それでも
――ひとりは、怖いよ……?
気がついてしまった。ずっとこの世界で、天音は独りぼっちだった。どこか埋まらない穴を抱えて、ひとりじゃないはずなのにひとりな気がして生きてきた。それがたまらなくつらかった。
気がついてしまったんだ――天音の今までの人生なんかよりも永い永い時間を、独りぼっちで生きてきたひとがいる。ひとりにしてしまった。他でもない天音自身が。
「ただの人間には何もできない……アーティファクトみたいな戦う力も、知力も寿命もない。でも、たとえ私が失くなっても……役に立てるなら」
ずっとあなたのそばにいることが、いてあげることができるなら
「きっと人間である必要がないんです。だから、」
私なんて消えてしまっていいから、ずっとあなたのそばにいられる存在が欲しい
「だから、平気なんです」
怖いなんて言わない。言えない。言っていいはずがない。
きっとあなたの隣にいるべきなのは
「私なんていなくたって、」
「……ふざけるな」
しかし、天音の言葉は途中で遮られた。
強く彼女の口を塞ぐ手の向こう側で――いつもは優しい色を向ける紅い瞳が、何もかも燃やし尽くすような激しい怒りを灯していた。
<><><>
「何を知ったような口を利いている……」
「……っ」
蒼い瞳がほんのりと恐怖に揺れている。まだ未熟な――あんな何もかも見透かしたような機械の目とは違う。完全に塞がった唇から手を離して、代わりにじっと彼女の顔を見つめ――いや睨みつけた。
「お前じゃなくていい……? ふざけるのも大概にしろ」
手のひらの中で細い肩が震えている。機械はこちらであるはずなのに、まるで作り物みたいな小さな身体のパーツ。傷つけてはいけないと、それだけは理性の焼き切れた頭の中に残っていた。
「お前は俺をなんだと思っているんだ……俺がお前をソルの代わりとして見ているとでも思っているのか? 俺がお前を依代にして、いつまでも失くなったものにしがみつき続ける哀れなモノに見えているのか?」
「え……違っ、」
「違わないだろう。俺はお前がいいと……お前でなければ嫌だと、何度もそう言ったはずだ」
掠れた弱々しい反論を抑えつけるように見下ろす。はくはくと苦しげに息をする天音の顔に、ぐっと自分の顔を近づけてイツキは地を這うような低い声で喉を鳴らした。