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ふっと、胸を突き刺すような恐怖に襲われることがある。
理由もなくただ漠然と怖くなる。一人ぽつねんと工房の猫足ソファーに座っているときだとか、薄暗い廊下を歩いているときだとか。そういうときに、不意にドロリと粘度の高い恐怖や不安が湧き上がってくることがある。
意味や理由を問うても無駄で、そういう感情は気がつくと消えているものだ。
それなのに――意味も理由も嫌という程わかっているのに、胸の中にこずんだのはその得体のしれない恐怖だった。
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「……話って?」
天音は夜中にイツキの部屋を訪ねた。機械ランプの明かりに照らされたいつもの通りの殺風景な部屋。
「……」
天音をベッドに座らせて自分は椅子に。そんなイツキの顔を見て、天音はどう言葉を切り出せばいいのかを忘れた。
ソルは約束を果たし、“首都”でも他の都市でも外部のアーティファクトによる襲撃が起こることはなくなった。あれから――初めてソルの“器”が境界線基地を訪れてからおよそ一ヶ月のときが流れ、季節はもうすぐ春になろうとしていた。
「天音……?」
「怒らないで、聴いてくれますか?」
おかしな問いだと天音は心の内で嗤う。怒るなもなにもない――一月もの間こんなことを隠していたのは天音自身だ。
「なにかやらかしたのか?」
「そうとも言えますね……はい」
「――いいよ、話してみろ」
怒らない、と確約してくれないあたり実にイツキらしい。かすかに微笑んで、天音はようやく口を開いた。
「静かになりましたよね……『遺物境界線』の外も中も」
「そうだな」
暗闇に沈んで見えないが、窓の外に広がっているはずの荒野の風景はこの数ヶ月でまったく変化を遂げていない。しかし、状況は大きく変わっている。
「ソルの“器”から、正確な世界の滅亡までの残り時間が提示されました。このままのシナリオでは……あと二年保たないそうです」
「あいつのことだから出鱈目かもしれない」
「彼女は本気です。だって、この世界のアーティファクトの運命を背負っていますから。あのひとは人間のことはたまらなく憎いけど、アーティファクトのことは大好きなんです」
「……ふん」
呆れたような鼻息に天音は小さく笑う。
「それで、いよいよソルを復活させることを考えなければならなくなりました」
「……」
「今マザーがいるところに設置される予定です。“器”の話では、完全にうまくいく保証はありませんがどうやらソルの自我そのものまで再現――というか復元できる可能性があるみたいです」
「……」
イツキは黙って天音の話を聞いている。ソルの話しをするといつも、イツキの眉間にはほんのりと皺が寄る。あまりこの件についての話はしたくないと態度の節々から伝わってくる。
「それで、イツキにひとつお話ししておかなければならないことがあります」
「ずいぶんかしこまって……一体なんなんだよ、さっきから」
イツキの不満げな表情に、天音はただ笑った。翳り――妙な落ち着きとどこか感情が抜け落ちたようなその表情が、イツキにかすかな違和感を覚えさせる。
「……お前、」
「イツキはソルが帰ってきてくれたら、嬉しいですか?」
「は?」
突拍子もない問い。天音の表情は穏やかで静かだが――違和感は加速度的に膨れ上がっていく。まるで、一人で眠ることのできない夜に突然訪れる、あの粘度の高い恐怖みたいに。
「イツキは昔に戻りたくないって言ってました。でも、それでもやっぱり……大切な友だちというか家族というか、そういう存在がもう一度戻ってきてくれたら嬉しいですよね?」
「……そ、れは」
嬉しくない。
とは、イツキには言い切れなかった。だってもし、
――『ルナ!』
愛しくてたまらなかった声とか、繋いだひんやりとした手とか、サラサラとした髪とか。そういうものが――戻ってくるとしたら?
「……」
「よかった……やっぱり、大切なひとが戻ってきたらイツキも嬉しいですよね」
イツキの沈黙を天音は肯定ととったようだ。ホッとしたような微笑みに、何故かちくりと胸を刺す罪悪感と妙な違和感。
次の瞬間、その違和感の正体がはっきりとわかった。
「じゃあ……私が消えて失くなってしまっても、きっとイツキは平気ですね」




