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「月の君! イオと模擬戦略をしましょう!」
「……嫌だ」
思い切り顔をしかめたのはたった今そこを通りかかったイツキだった。イオは思わず立ち上がる。
「イオは月の君とゲームがしたいのです! 一局でいいのです!」
「……」
イツキは面倒くさそうにそっぽを向いて出ていこうとする。イオは慌てて彼に走り寄って叫んだ。
「月の君っ!」
「そいつは死んだ。俺はお前の言う月の君とやらじゃない」
地の底を這うような低い声。威圧を十二分に含んだ声色にガニメデやエウロパ、さらには周りで見ていた“兵器”たちまでもがピシリと固まる。
しかし、イオはまったく意に介さず一人だけイツキをじっと見上げている。
「では、貴方が誰でも構わないのです。イオと遊びましょう」
「……」
「イオに模擬戦略を……ありとあらゆる戦のイロハを教えてくださったのは月の君なのです。イオを《精霊神》直属の軍師にしてくださったのは、月の君なのです」
「戦術なんてもう忘れた。月の君とやらと違って、俺は軍を率いる将軍でもお前のような軍師でもない」
億劫そうに首の後ろを掻いてイツキは息を吐く。紅い目がじっと彼女を睨み下ろしていた。
「俺ではお前の相手なんて務まらない。《四大衛星》はおろかソルですらお前には勝てないんだ……今の俺じゃ、」
「やはり、覚えていてくださったのですね! 我が君のことも我が同胞のことも、ちゃんと全部知っておいでのようなのです」
「……」
また苦々しげに表情が歪む。口元に手を当てるイツキにイオは嬉しそうに笑った。
「機械は忘れないのです。きっと、貴方は何も忘れてはいないのです。たとえ思い出せないことが多くても、貴方はそれを忘れてしまったわけではない……」
どこか優しい声色だった。跳ねるような楽しげな声ではなく、諭すような静かな声。
「イオは月の君からたくさんのことを教わったのです。イオが今までこうして壊れずに生きてこられたのは、我が君はもちろん月の君の影響も大きいのです。数千年前のあの時、イオは我が君に付き従って月の君を倒そうとした……本当は、月の君のことだって大切に思っていたのに、それなのに」
「……」
「太陽の君はイオの主様で、月の君はイオの師なのです。何度戦略の演習を繰り返し、実践を積んでも月の君の足元にも及ばなかった。何千、何万回と様々な人たちと模擬戦略をしたけれど――たった一人、月の君にだけは勝てなかった。月の君は、イオが尊敬するたった一人の師匠なのです」
「……お前のようなやつを、弟子にした覚えはないな」
そっけない声はやはり苦々しいのに、イオはただ笑ってみせた。懐かしむような沈黙が二人の間に流れて、周りの者たちも物音一つ立てずにその様子を見守っている。
ボードに伸びた駒の影が、同じ方向を向いて並んでいる――あの時二人が率いた、戦前の陣の風景を切り取ったかのように。
「月の君……一戦だけ、お相手願いたいのです。同じ手は使わないと、使ってはならないといつも言っておられた貴方の隙のない奇抜な手を、もう一度見たいのです」
「――失望することになっても知らないぞ」
「!? やったー!!」
諦念の滲むため息にイオは飛び跳ねる。いそいそと席に戻ると駒を並べ直して、イオはワクワクと目を輝かせた。
「もう一度見られるのです――これだけは、何度経験しても飽きないのです」
イオの楽しげな表情をイツキは無言で眺めている。その目には、何も浮かんでいなかった。
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「――あらあら」
「これはまた……数千年越しのドリームマッチじゃあないか」
とっぷりと日が暮れ、天井から吊るされた機械ランプが煌々と光を落とす境界線基地のロビー。マザーとソル、そして天音が足を踏み入れると――そこは何故か異様に盛り上がっていた。
エウロパ
種族:アーティファクト(Ⅱ型)
《四大衛星》の一人。《冰の衛星》と呼ばれ、“太陽の御方”・ソルの最側近として彼女に仕えていた。