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「えっと……確かにこのひとは敵側のアーティファクトです。でも私のことを助けてくれて、おまけに――」
「俺の怪我は、ぜんぶそいつにやられた」
理解するのに数秒。イツキの紅い目は冷静で嘘をついているようには見えない。思わず後ろを振り返ると――カリストは苦々しげに表情を歪めて、二人から視線を逸らしていた。
「な……え?」
「絆されたのか」
イツキの淡々とした呟きが耳を穿つ。カリストはただ静かに、うつむいてじっと立ち尽くしていた。
「まずいな……天音、早くここを離れるぞ」
「え? で、も」
――傷が……それにカリストさんは?
困惑した天音の言葉を待たないままに、イツキはふらふらと立ち上がる。壁にもたれかかって、荒く息を吐き出して。天音は咄嗟にその体を支えて頭を振った。
「駄目です! 今動いたら……」
「お前に……直してもらわないかぎり、どのみち傷は塞がらない。いつ動いたって同じだ」
そう言いながらも苦しそうに息を吐き出すイツキに、天音はどこか違和感を覚える。敵に見つからないため早くここを逃げ出さなければならないのはよくわかっているのだが
――何を、そんなに怖がっているの?
焦りはわかる。しかし、イツキにしてはどこか不合理な――隙間から見える恐怖の正体が天音にはわからなかった。
「待ってください、動くならせめてお腹の怪我だけどうにかしましょう?」
イツキの手を掴んで引っ張る。綺麗に直すことはできないかもしれないが、せめて傷だけ塞いであげたい。だって、こんなにも苦しそうだ。
「……」
イツキは黙り込む。一瞬、しんと静まり返る薄暗い廊下――
「おや……こんなところで何をしているんだい?」
しかし、突然現れた彼女の声に静寂は掻き消された。
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「……っ!?」
「これはこれは――会えて光栄だよ、“ギフト”」
初めて会う人物のはずなのに、彼女はいつもの優しげな微笑みを浮かべている。しかし、記憶とは違って艶々と流れる長い白銀の髪はただそのまま背中に垂れ、蒼い目はどこか尖った愉悦をたたえてこちらを見つめている。
さっとイツキが天音を庇おうと前に出た瞬間、
「いっ……!」
「イツキ……カリストさん!?」
突然カリストがイツキの左腕を掴んで捻り上げ、その動きを封じた。
「まったく――恐ろしい子だね、君は」
ゲホゲホと苦しい咳をするイツキ。彼を捕縛するカリストの目は――暗く淀んでいる。彼女はやれやれと頭を振った。
「逃げ出した上、あれだけ強い暗示をかけたというのにカリストをここまで絆すだなんて。やはりというかなんというか」
「……“太陽の御方”、」
妖艶に寒色の口紅が弧を描く。どうにか冷静さを保つ天音の呟きに、彼女は嬉しそうにうなずいた。
「正解だ! ああ、まさか君がここまで聡明な子だとは思わなかったよ、“ギフト”。どこまで知っているのかな?」
「私は、あなたの」
「一部? そうとも言えるし違うとも言える」
「あなたは“器”でしか無い。私が“ギフト”でしか無いように」
天音の答えに“太陽の御方”――いや“器”は声を立てて笑う。
「あはははっ! その通りだ……その通りだよ、“ギフト”。カリストを味方につけて、あれこれ聞き出したんだね?」
「カリストさんになにをしたんですか?」
「何も……? 私は何もしていないよ。ただ私は、彼がやりたいようにできるように背中を押しただけに過ぎない」
ニヤリと妖しげに歪んだ唇。カリストは依然としてイツキの体を拘束したまま――
「――あなたは、なんの目的で私をここに呼び出したんですか」
「本当にわからない? 『帰りたい』って、君も思ったことがあるんじゃないの?」
その蒼い瞳は不思議そうに天音のことを見つめている。どこか無邪気なその色は子供を連想させるが――今目の前に立っているのは、“首都”を襲う巨悪の根源だ。
「……どこに、帰りたいって言うんですか?」
「すべての始まりへ。私や君が始まった場所……数千年前の至福の園へだよ」
“器”の声は静かに、しかし廊下の隅々まで響いた。さらりと揺れた髪が、きらきらと非現実にきらめく。
「私はね、ずっと探していたんだよ。君のことと――そこにいる彼のことを、ずっとね」
 




