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「人質……?」
呆然と黙り込んだ天音の背中にカリストの不思議そうな声が当たる。天音もまた、困惑を隠せないままに彼を振り返った。
「多分……私に対しての人質です」
「まさかそれって、」
「――イツキ、」
ぎゅっと両手を胸の前で握り合わせる。じっとりと汗ばんだ肌が滑る――天音は縋り付くような眼差しでカリストを見つめた。
「本当にここから出れないんですか!?」
「無茶言うな……今自分で確認しただろう?」
相変わらず平坦な声だったが、彼の声には若干の狼狽が滲んでいる。何度試行しようとも、天音の手の中のドアノブは空虚にガチャガチャと鳴るだけにとどまり――それは“精霊の加護”を使っても同じことだった。
「どうしよう……」
この扉以外に窓も通気口もない密室。周辺には何人もの敵。おまけに――
「イツキ……怪我してるのに」
天音にとっての最も大きな懸念点はそれだった。あの時雪原にぽつりと落ちていた右腕。あとに残された膨大な量の機械油はもはや水たまりのように雪に溜まっていた――それを考えると、おそらく彼の負っている傷は腕のものだけではない。
初めて出会ったときに修繕した膨大な量の傷を思い出す。金属製の内骨格と銅線。ときに破れた、ときに焼けただれた人工皮膚。あの時、イツキは表情をぴくりとも変えなかったが――あんなの痛いに決まっている。
「あの男は……そんなに大切なものなのか?」
「……え?」
必死になって考えを巡らせる天音を――遮ったのはカリストの声だった。変に凪いだ低い声は強張っていて、天音ははっと顔を上げる。
「アーティファクトが……あんなにも危険な“精霊の加護”を持ったあの男が、あんたはそんなに大切なのか?」
カリストの目は真剣そのものだった。感情の見えない真っ黒な瞳は純然な疑問をたたえてこちらを刺すように見つめている。その問いに、天音は少しだけ黙り込んで――そっと息を吐き出すように言葉を紡いだ。
「大切です。あのひとは、私にとっていちばん大切なひとです」
「……」
腑に落ちない。と言わんばかりの沈黙に、天音はそれでもカリストを見つめ続ける。
「確かにイツキの“精霊の加護”は危険なものです。でも……そんなことどうでも良くなるくらいに私はあのひとのことが――好き、なので」
この部屋の外に出れば敵しかいない。今目の前で自分の話を聞いている彼も得体の知れないもので――こんな状況にもかかわらず天音は自分の顔が熱くなっているのをありありと感じた。
――緊張感ないなぁ……
「全然笑わないし喋らないし、どこまでも不器用で愛想のないひとなんです。でも本当は優しくて勇敢な――私のことを、私が醜いと思うところまでまるごと受け入れてくれるひとなんです」
ただ、そばにいると心地が良い。陽だまりのようなぽかぽかと柔らかい暖かさに包まれて、いつまでも彼と二人で笑っていたいと思ってしまうのだ。
「私は人間なので、機械に恋をしてしまうだなんて本当はおかしなことなんです。でも……私は受け入れたい」
彼をありのまま――機械であることも、危険な能力を持っていることも、どこか危うい性格も優しさも。
「イツキがしてくれたように、彼の全部を肯定してあげたい。いつもしてくれるみたいに私も彼を守ってあげたい。人間が思い上がった考えかもしれませんが――私はイツキのことが大好きです」
「……」
カリストはただ天音を見つめていた。無感情なその目には、しかし――
「やっぱり、あんたは“太陽の御方”だ」
どこか仄暗い懐かしさが浮かんでいる。
「……え?」
「俺がエウロパを呼び出して鍵を開けさせる。その間にここから出ていけ」
カリストは立ち上がると、壁際にひっそりと佇むキャビネットの上から古めかしいトランシーバーを手に取る。天音はその様子を呆気にとられて見つめた。
「でも、そんなこと……」
「裏切りだな。でも、どうでもいいから」
相変わらずの気だるげな声は、本当になんとも思っていないようだ。黒い目はもう天音のことなんか見ていなかった。
「そこの箪笥をドアの横に動かしておいてやる。時間は稼いでやるからうまくやれよ」
無線のチャンネルを合わせ始めたカリストに、天音は慌てて問いかける。
「なんでそこまでしてくれるんですか……?」
トランシーバーのツマミを回していた手が止まって、ちらりと彼は横目でまた天音を見る。――意外なことに、その瞳は優しげな色をしていた。
「守りたいものがある気持ちはわかる――俺とあんたは似た者同士だ。それだけだよ」




