426,
『どういうことなのです?』
『“ギフト”が消えた……まずいことになった』
『!?』
『先程まで、僕がお世話をしていたのですが気がつくとお部屋にはおられず……あれほど、厳重に警備してあったのに!』
くぐもった話し声と足音が複数。首を傾けても趣味の悪い玉座の背もたれしか見えない。後ろには確か扉があったはずだが――どうやらその向こう側で、三人ほど誰かが集まって会話をしている声が漏れ聞こえてきているらしい。
――“ギフト”……天音のことか
『消えた』『先程まで部屋に』『厳重な警備』――
「いや……おい、嘘だろう?」
嫌な予感が頭をよぎって、ぞわりと怖気が立つ。
「……あの馬鹿、」
まさか、敵地に乗り込んできたというのか? 明らかな罠――明らかに天音を狙った罠であることは、彼女も承知していることだろうに。それを、のこのことあいつが?
「……ともかく捜索を。カリストにもこの事を早急に伝えてください。我が君が不在の今、これ以上我が君の御指示に無い物事が起こることは防がなければ」
突然、扉の軋む音とともに声が明瞭に聞こえる。小さな足音が二つ、部屋の外に駆け去っていくのが聞こえた直後、うつむけた視界に人影が映った。
「――何か、逃げ出したのか?」
「っ、起きていらっしゃいましたか。騒がしくして申し訳ありません」
目の前に立っている人物は慌てて頭を下げる。丁寧だが微塵もこちらを敬ってるようには聞こえない口ぶり。顔を上げた彼は、大広間中に視線を滑らせた。
「お気になさらず……貴方様の出る幕ではありません」
「……“ギフト”か」
「聞こえておりましたか」
能面のような無表情がわずかに歪む。
「あいつは、今ここに?」
「……」
「罠が成功したということか。お前たちは――お前たちの主は、天音を使ってどうやって再興を図るつもりだ?」
「……」
彼は答えない。答えないまま、踵を返すと広間を出ていってしまった。主人に箝口令でも敷かれているのか、随分従順な下僕だ。
――天音……
今、天音がここにいる。おそらく自分を助けるために――味方を連れてきたか否かはわからないが、逃げ出したということはおそらく今はひとりだろう。
「ほんとに……馬鹿だな」
何故、たかだかアーティファクト一体に、天音のような人間が体を張る必要がある? 何故、天音はそこまでしてただの機械を?
――『イツキは……自分のことをただの機械だと思いますか?』
ふと、いつぞやの天音の言葉を思い出す。イツキの答えに、欲しい言葉じゃなかったと頬を膨らしたその横顔を思い出す。
「ただの機械じゃ……ないのかもな」
天音にとって、自分はただの機械ではないとしたら――もはや自分にとってすら、自らをただの機械だなんて思えなくなっているとしたら。そうしたらほんの少しだけでも、馬鹿な彼女の心理を理解できるだろうか。
誰かと生きていきたいなんて、誰かと幸せになりたいなんて。世界で一番醜くて汚らわしい――人間だけが持つ感情なのだとばかり思っていた。
「馬鹿は俺も一緒だ」
息を吐いて目を閉じる。眼前の暗闇に、気がつくと口元には小さな嘲笑が浮かんでいた。
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目の前の扉を細く開けて、慎重に部屋の中を覗き込む。
――なにも無いなぁ
するりと中に入ってほっと息をついて、背中の扉の向こうに思いを馳せながら暗闇に目を凝らした。
ガニメデにこの宮殿じみた建物――正確には神殿と思しき建物に連れてこられてからほんのニ時間程度。やたら豪奢な部屋に閉じ込められ、見張りについていたアーティファクトを“精霊の加護”で気絶させて出てきたのはちょうど一時間前。
それからずっと、この神殿の中を彷徨い――もとい、探索し続けている。
「人質がいるのはこういう部屋だと思うんだけど……」
神殿をちょうど東西に貫く廊下。相変わらず古代めいた雰囲気が漂うエンタシスまみれの廊下だったが――壁面の扉も、その奥の部屋も意外にも現代的な造りをしていた。
『――』
扉の向こうを慌ただしい足音と話し声が通り過ぎていく。じっと息を殺して、それが去っていくのを待つ――さっきからずっとこの戦法で追手を回避していた。
――鬼ごっこみたいだ
生命がかかった逃亡の中で、それでもどこか他人事に思う。完全に気配が消えたのを確認して扉を開ける。再び廊下に滑り出して、足音を殺して。
そのまま隣の扉をそっと押し開けた。