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「ところで……なにか用だったか?」
不意にイツキが首を傾げる。ローレンスはきょとんと目を瞬かせて――彼に話しかけたのは自分であったことを思い出した。
「いや、別に用事があったわけじゃない。ただ、こんな時間にこんなところで珍しいなと思って」
人気の少ない境界線基地の端。イツキはうなずく。
「朝飯を食いに行こうと思っただけだ」
「なるほどね。それは邪魔して悪かった」
《SNOW-MAN》が去っていったのとは反対の方に、ほんの少し歩けば《ひととき亭》がある。ローレンスが微笑むと、イツキはくるりと踵を返した。
「今日は午後の外周巡回でいいな?」
「ああ、よろしく頼む。――この雪で、少しでも侵攻のペースが落ちるといいんだけど……」
空を見上げる。雲一つ無く晴れ上がった冬空は、しかし凍てついた空気を地上に送り続けている。機械の吐く息すらも白く凍るこの気温が、雪解けを少しでも遅らせてくれればいいのだが。
「そうだな」
イツキは淡々と答えて歩き出す。そんな後ろ姿をローレンスは黙って見送って、ベースの中へと戻っていった。
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「イツキさん……イツキさん、」
今日の朝食のメニューはビーフシチューだった。この季節の朝に煮込み料理を出すのは、どうやらシェフの母の頃からの伝統らしい。
顔を上げると、そんなシェフがテーブルの下から背伸びをしてイツキを見つめていた。
「なにか用か?」
「これ、味見してほしいの」
周りをこそこそと窺いながら、ローリエはイツキに小さな皿を差し出す。そこにあったのは一枚のクッキーだった。
「……俺に?」
「はじめてつくったから味がどうかわからなくって……おとうさんにも食べてもらったんだけど、ほかの人にも食べてみてもらったほうがいいかなって。感想をおしえてください!」
なんとも見上げた向上心である。イツキはクッキーをつまむと口に入れた。
「甘い」
「えっと……ほかには?」
じりじりとしたローリエの表情に、イツキは思考を巡らせるように唇の端を舐めた。
「これはナッツか?」
「うん! 春苑のほうでとれる木の実なんだけど、このまえ旅商隊の人に売ってもらったの」
旅商隊の最盛期は春だが、冬だからといってまったく来なくなるわけではない。もっとも、今日のように雪が積もってしまってはしばらく途絶えてしまうことになりそうだが。
春苑から来た商隊にわざわざ融通してもらったのだろう。どこか異国情緒の漂う味だった。
「随分と奮発したんだな。誰かへの贈り物か」
「えええ〜っ!? なんで? なんでわかったの?」
ローリエは目を丸くする。根拠はいくらでも転がっていたが、イツキは野暮ったいことを言うのはやめた。
「誰に贈るんだ?」
「あのね……ねえ、ないしょにしてくれる?」
ローリエは再びきょろきょろと周りを見回す。うなずいたイツキに彼女はひそひそと秘密話を打ち明けた。
「天音おねえちゃんにあげるの。《精霊祭》のプレゼントなんだよ」
ローリエは目を輝かせる。わくわくとした心が小さな体から滲み出ているようだ。が、イツキはいまいちピンとこないようで、また首を傾げていた。
「……《精霊祭》?」
「イツキさん知らないの? 《精霊祭》っていうお祭りがあるんだよ!」
ローリエは楽しそうに説明を始める。元は春苑のあたり一帯――つまり《帝州》発祥の行事なんだとか、《精霊》様とやらの恵みに感謝する日なんだとか。
「ケーキとかごちそうを食べたり……たいせつな人にプレゼントをあげたりするの!」
「それで、天音にクッキーを渡すのか」
納得したようにうなずくイツキ。ローリエはひそひそと口元に手を当てた。
「おとうさんには手袋をあんであげるの。あとちょっとでできるんだよ」
つくづく何でもできる少女である。イツキは再びスプーンを手にとってシチューをかき回した。
「天音が好きそうな味だな。あいつ、甘いもの好きだから」
「ほんとう!? よかった〜」
ようやっとイツキが捻り出した感想に、ローリエは嬉しそうに笑う。
ちょうどその時、彼女の後ろからスグルが現れた。
「ローリエ、そろそろ学校に行かないと遅れるよ」
「わあ、たいへん! ローリエもう行くね? ありがとうイツキさん」
スグルの言葉にローリエは慌てて店の奥へと走っていってしまった。ドタバタと賑やかな足音を背にスグルは苦笑する。
「すみませんね、お食事中に。――毎年この時期になると、巫剣先生にプレゼントを渡すんだってものすごく張り切っていて」




