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何者なのか。
ページを捲る手が止まる。何者?
――どうして私は……イツキに『古代戦争』について聞いてほしくなかったの?
『知らない』
耳元で低い声が断固たる拒絶を交えて聞こえてくるようだった。あの日――マザーに会いに行って、天音が初めて『帰りたい』という想いに触れる夢を見たあの日の午後。
フードから覗く引き結ばれた薄い唇。首元の紅い精霊護符。何故か怖くて、それ以上の詮索なんてできなかった。
――あんな声、もう二度と聞きたくない
きっと、イツキは何かを知っている。きっと何かを隠している。
イツキという存在はどういうものだっただろうか。彼はいったい何者なのだろうか。
――私は、本当になにも知らないんだ
三百年前に製造された、旧型の『Ⅲ型』アーティファクト。“精霊の加護”に関しても彼の性格についてもよく知っているのに、それなのになにもわからない。まるで底のない沼のようだった。
「……」
「手が止まっているぞ?」
不意に耳元で、ほんの少し掠れた低い声が響く。はっと後ろを振り返ると紅い双眸が天音をじっと見つめていた。
「……本を読むも読まないも、私の自由ですよ」
すんでのところで動揺を呑み込んで天音は本を閉じる。
ダルグを出てからずっと、イツキは天音のそばにいる。天音が頼んだのだ。――もっとも、お陰で彼はダルグに着く前天音にされていたように、一日中彼女の毛布の役割をさせられているのだが。
――こうしてずっとそばにいれば、何かわかることがあるだろうか……
イツキは天音を後ろから抱きしめていて、彼女の肩に頭を乗せている。さらさらとした黒髪が首筋を撫でてくすぐったい。本をかたわらに置いて、天音はイツキの頭をそっと撫でた。
「やめろ」
くぐもった声は天音の手を拒絶するが、物理的に手を止める動きはしてこない。されるがままの彼をぼんやりと見つめて、天音は思考する。
――イツキの製造は三百年前……でも『古代戦争』が起こったのは数千年前
だからイツキが直接天音の知りたいことに関わっているわけではない。それならイツキはなにを知っているのか。
そもそも、何故あの時イツキは答えることを拒んだのか。
――言いたくないこと……
別に隠し事をされることは仕方のないことだと思っている。言えないことだってお互いたくさんあるに違いない。言えないことは、言えるようになるまで待たなければならないのは人との関係の中で当たり前のことだ。
でも、何かがおかしい。
――言いたくないんじゃ、無いのかな
言いたくない――じゃなくて言えない。少し違う気もするがそうとでも思わなければ納得できない。
結局わからないことだらけのまま、天音は思考を手放してイツキにもたれかかった。
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「あのっ!」
視線を落とすと足元に小さな人影が立っていた。
「……王子様がなんの用だ」
――《エレブシナ王国》は《南シレア山脈》に囲まれた天然の城塞都市。厳しい冬の寒さは国民に不自由な生活を強いていたが、それと同じくらいに外部のアーティファクトたちを寄せ付けない。
そんなエレブシナの地に降り立った天音は、早速この都市の“管理者”・エゲルの修繕をするために王城の地下にこもっていた。
「許可がおりましたので広間へどうぞ。巫剣先生の護衛の方なのに……おまたせしてしまってすみませんでした」
イツキの足元で眼前の地下へと続く階段を指し示すのはアルバートだった。同盟会合のときと比べて少し背が伸びたような気がする。
「どうも」
「こっちです! 僕がご案内します」
王族の人間であるというのに偉ぶらないのは兄王の教育の賜物だろうか。他の兄弟たちと思しき子どもたちは、イツキをこわごわと遠巻きに眺めているだけだったが、アルバートは臆すること無くイツキにも話しかけてくる。
「……あの、イツキさん」
「……」
黙ったまま見下ろすと兄によく似たアーモンド型の目と目が合う。クリクリとしたそれは幼さを滲ませてイツキを見つめていた。
「どうしたらイツキさんのように背が大きくなりますか?」
「それを機械に聞くのか……」
呆れたイツキの声にアルバートはきょとんと首を傾げる。密かにため息をついたイツキの眼前に仄暗い大広間が広がっていた。