364,
「っ!?」
不意に後ろからぐいっと引っ張られる衝撃。口を塞がれる感覚は、よく知ったものだった。
「……またか。だから口喧嘩はよせって言っているのに」
この状況に似つかわしくない冷静な、しかしよく知った声が天音の頭の上から聞こえる。下げた目線に映った黒い革の手袋はイツキのものだった。
――は、なして……
感情の衝動のままに天音はそれを振り払おうと藻掻く。
「おい、暴れるな」
じたばたと暴れる天音を腕の中に押さえ込んで、イツキは目の前で座り込むユリアを見た。
「なんでこんな状態になっているのかはわからないが……さっさと出てけ」
「っ、でも……私は、」
「お前、天音に殺されかけてたんだぞ? 早くしろ、こんなとこで死なれたら面倒なんだ」
不機嫌な紅い瞳に、ユリアはガクガクと体を震わせながらも立ち上がってロビーの外に出ていく。その慌ただしい後ろ姿を見送って、激しく抵抗を繰り返す天音の口元からそっと手を離した。
「天音、落ち着け」
「い……や、離してっ!」
天音はさらに暴れるが、イツキの力にはかなわない。天音の加護の圧力から逃れた“兵器”たちも、慌てて彼らに近づいた。
「離して……い、や、私っ……帰りたくない……」
「――なにがあったか知らないが、こんな“精霊の加護”の使い方はお前らしくないぞ? いいから、少し落ち着け」
宥めるイツキの言葉に周りの“兵器”たちもうなずく。しかし、天音は――
「――です、」
「あ?」
「イツキには……イツキには、わかんないです!」
そう叫んでぎっとイツキを睨めつける。イツキは困惑したように首を傾げた。
「お前……」
「落ち着けるわけ無いじゃないですか!? なにも知らないくせにっ……なんで、止めたの……?」
「やめろ天音、」
――こいつ、加護の使いすぎだ
蒼い目は薄ぼんやりと濁っていた。加護に体力を吸われて、まともに考えて行動することもままならない――支離滅裂なイツキへの怒鳴り声は、彼のそれとはまた違う、“精霊の加護”の暴走状態だった。
イツキは横目でローレンスを睨む。
「あの女、こいつになにをしたんだ?」
「いや、それが……」
「いやだ……かえりたくないよ……あんなところ、もうかえりたくない」
しかし、ローレンスがイツキの問いに答える前に天音が呟く。イツキは彼女の顔を覗き込んだ。
「何があったか教えろ」
「いや……い、や」
感情が抜け落ちたガラス玉のような瞳。不明瞭な言葉も何もかも、彼女はもうイツキを見ていない。
あの時と――両親の記憶で我を忘れたあのときと同じだった。
「っ、いい加減にしろ!」
あの時よりも酷かった。あの時は戻ってきてくれたが、ひょっとすると今回は――
突然そんな不安に駆られ、イツキは思わず声を荒らげて天音の手首を掴む。
その瞬間、天音の瞳が激しい恐怖に揺れた。
『離して! 触らないでっ!』
――バチッ!
電気回路が短絡を起こしたときのような激しい音と、火花の散るような衝撃。
「っ!?」
天音の手をつかんだ右手に激しい痛みを感じて、イツキは咄嗟に彼女から手を離した。
「いっ……」
「「イツキ!?」」
「大丈夫か?」
右手を押さえて呻くイツキに、周りの“兵器”たちが慌てる。ローレンスが彼の右手を見ると――黒い手袋に焼け焦げた跡があった。
「体の方に怪我は?」
「……いや、痛みだけ」
手を押さえたままイツキはただそう答えて、顔を上げる。視線の先の天音は呆然とイツキを、正確にはイツキの右手を見つめていた。
「あ……い、つき」
か細い声。胸の前で握りしめられた小さな手は、恐怖で震えている。蒼い目に、もう濁りはなかった。
「私……い、ま」
「やっと正気に戻ったか。大丈夫か、お前……、」
右手を軽く振って、イツキは何事もなかったかのように天音に手を差し出す。しかし、天音はびくりと後ずさると
「ご、ごめんなさい!」
「は?ちょっと待て、」
イツキが伸ばした手をすり抜けて、それだけ叫んでロビーを出ていってしまった。