360,
「べ、別に……嫌では、ないですよ……?」
首筋に当たる短い髪がこそばゆい。視線をやると紅い瞳も見つめ返してきているのが見えた。
――この人に触れることができるのは……この人が触れることができるのは、私だけ
失念していた。いつもそんな素振りは微塵も見せないから。まるで凍りついているかのような彼の感情体系にも、人肌恋しいと思う気持ちはあるのだろうか。
「前にも言いましたけど、急にやられるとびっくりしますから……でも、それ以外は嫌じゃないです」
「……」
じっと探るような目。ふいっと顔を背けるとイツキはまた天音の肩に顔をうつむけた。
「心臓に悪いので事前申告はお願いしますね? 好きにしていいですから」
「……もう少しだけ」
くぐもった声には覇気がない。最近働き通しで疲れているのか? それだけでは無い気もするが、甘える相手が本当に天音なんかでいいのか?
天音は内心首を傾げる。が、まったく離れてくれる気配がないイツキに、ため息をつくように微笑むと――そっと彼の頭に手を置いた。
「……」
「睨まないでください。あなたが好きにするなら、私だって好きにさせてもらいますから」
胡乱な紅い眼差しに天音はすまし顔で答える。そっと手を動かしてみると、サラサラふわふわとした黒髪は非常に撫で心地が良かった。
――なんだろう……犬、かな?
子供の頃、巫剣本家の屋敷であの老執事・藍崎が飼っていた犬が、たしかこんなような毛並みだった気がする。少し長めで毛艶の良い黒。撫でさせてもらったことが何度かあったが、イツキのほうがよりサラサラふわふわしている――気がする。
「やめろ」
「やめて欲しいなら離れてください」
「……」
不満気に呻きながらもイツキは離れようとしない。天音は素直にこの状況を受け入れて、彼の髪を思いっきりワシャワシャと撫でた。
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柔らかい感触とぬくくて甘い香り。
今までずっと髪を撫でいた手が不意に止まって、イツキは静かに顔を上げた。
「……無防備め」
腕の中で天音がうとうとと微睡んでいる。彼女もまた疲れているんだろう。時々ふっと蒼色の瞳が瞼の隙間から覗いて、しかし再び穏やかに目を閉じて。それを繰り返す力の抜けきった表情を、イツキはただ淡々と見つめた。
――柄にもないことをしてしまった
甘えるだなんて、ぬくもりが恋しいなんて――今までの自分だったら考えられないことだ。
かつて守っていたもの、今守っているもの。遠巻きに眺めていた人間のふれあいは、いざその身に感じてみると驚くほどに心地が良くて離れがたいものだった。
「もう少し……」
もう少しだけ、このままでいてもいいだろうか。
天音は人間だ。いままで自分が生きてきた時間とは比べ物にならないくらい短い時間を彼女は生きていく。こんな刹那のぬくもりにかまけてしまっていいものか。失ってしまえばもう二度と出会うことは叶わない。そういう触れられる存在は天音だけなのに、溺れてしまっていいのだろうか。
そう思っていてもその身体を手放すことはできなくて。イツキは再び天音をぎゅっと抱きしめた。
「馬鹿だな、俺も」
今さら恋だの愛だの――ガキじゃあるまいし。
誰かを好きになるということが、誰かを愛するということが――たとえこの身を引き裂いても誰かを守りたいと思うことがどれだけ不毛なことなのかということをよく理解している。そのはずなのに、機械の範疇を超えた“感情”に焦がれる。馬鹿だ。大馬鹿者だ。
「無防備め」
コトン、とイツキの胸に頭を預けて本格的に眠り始めた天音の髪を、一房手に取る。白銀の髪は絹糸のように滑らかで、それを指に絡めて弄びながらイツキは息を吐き出した。
「なんでこんなやつ、好きになったんだろうな」
必然。としか答えが返ってこない不毛な疑問を口にして、イツキの唇は静かに弧を描いた。