200,
――“懐かない子猫”って……なんだ?
先程聞いたアキラの言葉に首を傾げながら、茜は廊下を進んでいく。
くねくねと入り組んだ廊下と階段を通り過ぎていくと――窓がなくなりほんの僅かに薄暗くなってしまった廊下の一画に、脇に小さな金色のベルが付いた扉があった。
『リン!』
軽やかなベルの音が廊下に反響する。その不思議な響きは中にいるこの部屋の主を呼び出すものだ。
――呼び出すはずなのだが
「あれ?」
いつもと違って今日は中から返事がない。もう一度ベルを鳴らしても結果は同じ。茜はしばらく逡巡した後、そっとドアノブに手をかける。
「あ、開いてる……?」
“首都”の『指定修繕師』であり、元元老院。ユーリはああ見えて非常に用心深い性格をしている。そんな彼が鍵のかけ忘れなんて。
茜は勇気を出して、細く開けたドアから中を覗き込んだ。
――本当に、いないな……
出かけているのか。本当にただの鍵のかけ忘れなのか……? なら、また明日にでも出直したほうが、
「どちらさまですか?」
「ぅわあっ!?」
人影一つ見えない部屋。死角となった足元から聞こえた声に茜は思わず飛び上がった。
「な、なに? 誰?」
「……きいているのは、わたしです」
飛び退ってわずかに下がった茜の目線。その先には――
「なんのご用ですか? “とうさん”は今、でかけています」
茜の腰ほどの身長もない、小さな少女が立っていた。
美しい白銀の髪は長く、その蒼色の目は憮然とした光を放っている。
「とう、さん?」
「そうです。――ユーリ・アクタガワは、でかけています。あなたは誰ですか?」
幼い容姿と噛み合わない言葉遣いと高圧的な態度。茜はおずおずと彼女を見下ろす。
「えと……荷物を届けに来たんだ――来ました。あ、的場 茜といいます、僕は。えっと、工業油と機械部品をお届けに」
「……しょうしょう、お待ちください」
要領が悪い茜の説明にも関わらず、その少女は納得したように部屋の奥に引っ込む。茜はその後ろ姿を目で追った。
――猫って、もしかしてアレか……
小さな足が二本、トコトコと床を蹴って歩く。目一杯の背伸びと伸ばされる小さな手。
確かに、態度や仕草が猫に似ていなくもない。でもアキラが言っていたように“子猫”というよりは……
「野良猫」
「なんですか?」
ギッと睨めつけてくる蒼い目。
間違いない。と茜は心のなかで呟いた。
「だいきんです。とうさんが荷物をうけとるように、と」
「あ。どうも……」
再びドアの前で茜と対峙した、少女の手が差し出される。茜はその手から紙幣を受け取ろうとして――手が届かず、コンテナを下ろすと彼女の前にしゃがみこんだ。
「ちっさ」
「……なんて失礼な。ちいさくありません」
目の前の作り物のように小さな手に茜が思わず呟くと、その少女は鬼のような形相(少なくとも彼女はそう思っている)で茜を睨む。その低められた声に彼は苦笑した。
「いや、ごめん」
「ちいさく、ない……」
無意識のうちに頬が膨らむ。その姿に茜は思わず吹き出した。
「ぷっ! くくくっ……」
「なにを笑っているのですか!?」
カッと蒼い瞳が見開かれる。それにまた吹き出す茜に怒る少女。堂々巡りの末、茜が降参と言わんばかりに両手を上げた。
「くっふ……ご、ごめんて……っ」
「だから! 笑ってはだめなのですっ」
「はあ、はぁ……。はいはい。笑ってないよ〜」
ふらふらと両手を振って、茜はほがらかに笑う。まだまだ溜飲が下がらない少女は茜を睨んだままだったが、彼はもうそれを気にもとめない。
「ねえ、君、名前なんていうの?」
「なんで、いわないといけませんか?」
「僕は名前教えただろ? フェアじゃないじゃないか」
「……」
ニヤッと笑う茜。その少女はしばらくじっと茜を見つめていたが――やがてぽつりと呟いた。
「天音。巫剣 天音といいます」
アヤメ・アルカノス
スグル・アルカノスの妻にして《ひととき亭》のシェフ。人間の料理を作れない夫のかわりに、境界線基地で働く人間たちに食事を提供している。
的場 茜
大学園中等学部に通いながら家業である機械商の手伝いをしている少年。“旅商人になる”という夢のために勉強と手伝いに勤しんでいる。