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「『高貴なる人々』間のとりひきには“貸し”と“借り”がそんざいします。――ただでできるとりひきはありません」
「待って。そんなこと、誰に教わったの?」
ユーリは咄嗟に手を天音の前に突き出すと彼女に問いかける。彼女は疑いにまみれた目をそのままに答えた。
「おとうさまに……」
「――まったくあの男は」
天音の答えにユーリは頭を抱える。
ふと、とある冬樹の言葉を思い出した。確か、彼がレイナと結婚してすぐのことだった気がする。
――『僕に子供ができたら、“首都”で最高の教育をほどこすつもりだ』
「馬鹿か。四歳児になんてことを教えているんだ……確かに英才教育ではあるが」
巫剣 冬樹という男は確かに優秀だが、その反面ひどく頑固で向こう見ずな人間でもあった。――良く言えば一途でしっかりと自分の意思を持っている、と言えなくもない。
しかし、いくらなんでもこれは酷すぎる。
「えーっと……。確かに、取引という観点から見れば君の言っていることは間違っていない。でも、僕が言いたいのはそういうことじゃ無いんだ」
「……?」
天音はコテン、と首を傾げる。口調は大人びているが、それに見合わない仕草と声の幼さに、ユーリは思わず吹き出そうになった笑いを堪える為に口元に手を当てた。
「取引じゃない。僕が一方的に善意を君に押し付けたいだけなんだ。だからいいんだよ。君は僕になにか返そうと思う必要はない」
「どう、して……?」
困ったように眉を寄せる天音。ユーリ優しげに彼女を見つめた。
「理由が必要? 僕の勝手なわがままなんだけど」
「……りゆうがないと、みすてられる“条件”がわかりません」
「んん? なるほど……敏い子だなぁ」
くくっと笑って、ユーリは視線を上げる。シャンデリアの明かりにほんの少し目がくらんだ。
「見棄てたりしないよ? 見棄てるくらいなら、最初からこんな提案しないから」
「……」
天音は何も言わない。その表情は険しかった。
「ふっ、信じてないって顔」
「しんじないです」
ユーリは苦笑して頬を掻く。しかし、ふと腕を上げると――
「んあ!?」
「そうだよね。信じられないよね」
天音の頭をそっと撫でる。撫でられている天音は、慌ててユーリの腕を両手で掴んだ。
「さ、わらないでっ!」
「信じられなくていいよ」
ぎゅっと目を瞑った刹那、耳に触れたそんな言葉に天音は思わず目を開ける。見上げれば、柔らかく目を細めているユーリがいた。
「信じなくていい。突然現れた父親の友人を名乗る人間なんて――信じろって言うのが無理だよ。でも、いずれにせよ君はここから出ていかないといけない。もちろん、今からここを僕の部下たちが捜査するから、というのもある。でもそれ以上に……」
いつまでもここに閉じこもっているわけにはいかないでしょ?
ユーリの言葉に、天音はハッとしたように顔を上げる。ユーリは言葉を続けた。
「人生って長いよ? 特に、君みたいな子供はね。おまけに、食べ物も住むところも着るものも……たくさん必要なんだよ。だから人間は、君は一人じゃ生きられない。――ねえ。ここから追い出されて一人になって、君はそれでも僕の提案を投げ出して生きていけるの?」
「……」
――少し脅かしすぎたかな……
黙ったままうつむいてしまった天音を見下ろして、ユーリは少し後悔する。幼い少女にはきつかったかもしれない。でも、これが真実だ。
「“貸し”と“借り”でしか考えられないなら、今はそれでいい。君が僕に養われて“借り”を作ってしまったって思うなら――いつか返してくれればいいから」
「い、つか?」
「そう。いつでもいいよ? 君が好きなときでいい。なんなら返さなくたっていい。僕は気にしないからね」
まあ、君は気にするんだろうけど。
そう言って笑うユーリを、天音は不思議そうに見上げる。しかし、ふいっと顔を背けると小さな声で呟いた。
「……ちゃんと、かえします。だから、その……た、助けてください……っ」
「それが君の返事か。いいよ、僕のところにおいで。――でも律儀だなぁ、冬樹にそっくりだ」
ユーリは笑う。
とある高名な修繕師親子は、口先だけの取引から始まった。