190,
「ふふ。やっと出てきてくれた。……待ってた甲斐があったなぁ」
「……」
――うそ
そうやって、優しそうにするのも最初だけなんだ。得体のしれないものだとわかった瞬間、誰も見向きもしてくれなくなるんだ。――この人だって、そうなんだ。
近づくなと叫ぼうと思った。が、そんな心とは裏腹に、恐怖のあまり喉が凍りついてしまったように動かない。代わりに精一杯に睨みつけるが――男はニコニコとその様子を見つめるだけだった。
「ああ……レイナさんにそっくりだな。美人さんだ。――でも、しかめっ面があんまり怖くないのは冬樹譲りか」
「……」
優しい声と眼差し。心臓をぎゅっと掴み上げられるような意味の分からない苦しさに襲われ、天音は咄嗟に視線を下げた。
「……ぅ……う」
「え……泣いてる?」
小さく呻いた天音を見て、ユーリは慌てたように彼女の顔を覗き込もうとする。その動きに、天音はパニックを起こしたようにぎゅっと小さく体を縮めた。
「ち……がうっ、」
ないてない……っ
天音はそう言うが――パタパタと滴った水滴が、床に落ちて光る。ユーリはその様子を唖然として眺めて、また静かに微笑んだ。
「強がらなくていい。急にびっくりしたよな……ごめんな」
ユーリはそっと天音の頭に手を乗せる。びくんと震えた彼女を宥めるように、その小さな頭を撫でてやる。手入れが行き届いていない髪は少しもつれたり傷んだりしているが――幼いそれは、ひどく柔くて脆い。
「っ……う、うぅ……」
しゃくりあげる声と、手のひらに伝わる震え。やせ細った小さな身体に、ユーリはぐっと唇を噛む。
――こんな小さな女の子に、
なんて生活を強いてきたのか。
家族を奪って、自由を奪って――誰かに優しくされることを受け入れる権利を奪って。
ユーリは膝立ちになって、ほんの少しだけドアを押し開けると、慣れないぎこちない手付きでそっとその小さな身体を抱き込む。
「や……だ、」
天音は泣き声のまま弱々しく抵抗するが、ユーリは構わずそのまま膝の上に抱えあげるとあやすようにそっと彼女の背中を叩く。
「大丈夫。……怖いことはしない」
「やぁ、だ……」
舌足らずな抵抗は、そっと身体を揺すって優しく撫でさすってやるにつれて小さくなっていく。
――藻掻いていた小さな手が落ちて泣き声が止んだ頃、階段を上がる足音が聞こえた。
「せんぱ……ぃ」
「……」
天音を膝の上に抱えたまま、唇に立てた人差し指を当てるユーリを、冬馬は呆気にとられて見つめる。
『帰ってくる?』
無声音でそう尋ねるユーリに、冬馬はこくこくとうなずく。ユーリは天音を抱いたまま静かに立ち上がって、ドアの隙間から薄暗い部屋の中に滑り込んだ。
――何もないな……
機械ランプが一つだけ小さな光を投げるその部屋は、窓際に置かれたベッド以外には本当に何もなかった。がっちりと窓が締め切られ淀んだ空気。ベッドは、一回も使っていないのかベッドメイキングされた状態を保っている。
――まさか……寝ていないんじゃないだろうな
少し眉を寄せて、しかし穏やかな寝息を立てる天音の寝顔をユーリは眺める。そのまま、その小さな身体をベッドに寝かせて上掛けをかけてやると、ユーリは部屋を出た。
「ごめんね、まだ時間大丈夫かな?」
「ええ、まあ……なんとか」
後ろ手にドアを閉めたユーリを、冬馬は目を丸くして見つめる。ユーリはそんな彼に不思議そうに首を傾げた。
「ん?」
「いや、『ん?』じゃないでしょう!? 冬樹さんの娘、あんなに間近で見たの初めてですよ! どれだけ懐かせてるんですか……」
「懐かせてるって……犬じゃ無いんだから」
冬馬の言い草にユーリは苦笑する。冬馬はまだぶつぶつと何かを言っていたが――ユーリはその言葉を流してもう一度、廊下の突き当りのドアを振り返る。
――この日、ユーリはとある少女に関する大きな決断をした。




