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薄暗い部屋。締め切った窓とカーテン。デスクの上で弱々しく光る機械ランプの明かりだけが揺れる。
膝を抱えてうずくまるその少女は、外から聞こえてくる穏やかな声に更にぎゅっと小さく丸まった。
――わからない……
なぜこの人は、わたしに話しかけるんだろう?
ふわふわと優しい低い声に耳を傾けながら、天音はそんなふうに思う。顔も見たことがない、父親の友達だと名乗る男。近づいてほしくなくて、何回も何回も拒絶しているのに――ほぼ毎日やってきてはどうでもいい話ばかりしていくのだ。
――ナナカマド? しらない、そんなの……
『君は……どんな、花が好き? もしよかったら……今度、もってくる、よ……?』
――?
だんだんと途切れ途切れになりつつあった声は、ふっと途絶えてしまった。天音はぼんやりと扉に目をやる。その向こうからはもう音は聞こえてこなかった。
「……」
ぎこちなく立ち上がる。数時間ぶりに動かした体はギシギシと軋んだ音を立てているようで、転びそうになるのを必死にこらえる。足音を立てないように静かにドアの前にたどり着くと、そっとドアに耳を当てた。
『……』
規則正しい呼吸音がかすかに聞こえてくる。先程とは打って変わって静かになってしまったドアの向こう側を想像して、天音は訝しげに目を瞬かせた。
――どう、しよう
ドアを開けて外を見てみるか。それとも怖いからやめるべきか。ドアノブを睨み付けて、天音はその小さな手を握ったり開いたりしてみる。
――『君を傷つけたり、嫌がることをしたりしないから、開けてくれない?』
初めて声を聞いたとき、そう言っていたのを思い出す。
信じられない。もう、誰一人だって信じられない。
みんな、うそつきだ。
「……どうしよう」
声に出して言ってみる。問題の輪郭がはっきりした気がした。何を迷っているのか。こんなもの放っておけばいい。
信じられないのに。信じたくないのに。それなのに――
『ガチャリ……』
ドアノブを捻れば、くぐもった音を立ててドアが細く開く。薄暗い部屋の中に廊下のシャンデリアの強い光が入ってきて眩しい。
天音は目を細めて、おそるおそる扉の脇に目をやった。
「……」
静かな寝息を立てて、一人の男が寝入っている。
限りなく白に近い色素の薄い金髪が、どぎついシャンデリアの光を柔らかくして跳ね返している。
「白金みたい……」
母親の薬指に嵌っていた細い指輪を思い出しながら、天音は知らず知らずのうちにそう呟いていた。半開きのドアの影から出ないまま、その場にそっとしゃがみ込む。
そのまま暫くの間、じっとその男の寝顔を眺めていた。
――どれだけ経っただろうか。
不意に階下から物音が聞こえ、男の肩がぴくりと揺れる。
ドアの影にしゃがみこんでぼんやりと彼の様子を眺めていた天音は、慌てて身構えた。
「ん……ぅ」
掠れた呻き声とともに、瞼の隙間から蒼色の瞳が姿を現す。『高貴なる人々』にありがちな碧眼。しかし、ぼんやりと柔らかい光をたたえたそれは、周りにいる貴族たちの不気味なあの青色とはどこか違うと天音は感じた。
――『天音の目は……海みたいな色をしているのねぇ』
いつか聞いた母の言葉を思い出す。
と、その蒼色の瞳が天音の姿を捉えた。
「……ぁ、」
驚いたように見開かれる目と、小さな声。天音はそれを目の前にして、思わず威嚇するようにその男を睨みつける。男はじっと動かずに天音の様子を眺めていたが――やがて、ふっと微笑んだ。




