183,
『……私に、近づかないで』
「っ!?」
不意に、天音の声が低くなる。
――その瞬間、金縛りにあったようにその場にいた全ての人間が動きを止めた。
「な、んだ……?」
ヨシュアが呆気にとられたように呟く。想定外の事態に処刑人は持っていた槍を取り落とした。
「何をしている? ガキひとりくらい、早く殺せ!」
五十嵐が叫ぶが――処刑人は恐怖に呑まれたようにただただ首を横に振る。
天音がふらりと立ち上がった。
『私に近づくな……。さわるな、話しかけるな……っ』
彼女の周りの空気が禍々しく歪んでいるのではないか。そう思ってしまうほどに、天音の声は頭の中に入り込んできてぐちゃぐちゃにかき乱していく。
――この、感じ……どこかで?
血溜まりの中。佇む少女の白銀の髪と蒼い瞳は――まるで白昼夢のように浮かんでいた。
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「……ユーリ。用事とは何だ?」
――冬樹が死んでから三日。
相変わらず膨大な量の執務に追われる矢先、ヨシュアはユーリに呼び出された。ごちゃごちゃと片付かない彼の執務室は重く鈍い空気で満たされている。
「……」
ユーリはヨシュアに背を向けてぼんやりと窓の外を眺めていた。――来客に対応しないなんて、普段はありえないユーリの姿に、ヨシュアは彼がいかに今回の件で心傷を負っているのかを思い知る。
ヨシュアが肩を叩くとユーリははっと顔を上げた。
「! ……すまない。気づかなかった」
「呼んだのはお前だろう、ユーリ。ボケるにはまだ早いんじゃないか?」
沈んだ空気をどうにかしたくて、ヨシュアは冗談めかした言葉を吐く。ユーリはその意図に気づいたのかほんの少し声を上げて笑うが――すぐに口を閉ざしてしまった。
「……ごめん」
「いや……。わかってるさ」
それで、用事って?
ヨシュアの問いかけに、ユーリはデスクの引き出しの下段、鍵がかかったそれに手を伸ばす。
「それは?」
彼が取り出したのは分厚い封筒だった。差し出されたそれを首を傾げて眺めるヨシュアに、ユーリは息を吐き出す。
「――冬樹の置き土産だ。ただで転ばないっていうのは、本当だな」
「!?」
慌ただしく受け取った封筒の中を見るヨシュアを、ユーリはただじっと見つめた。
「まさか……これって!」
「ああ。冬樹が見つけた証拠――本物の国家反逆罪の証拠だ」
膨大な量の文書、手記……その他にもたくさんの五十嵐の悪行、そしてそれに関与した巫剣家分家の所業に関する記述。
「要は、僕に送って寄越したこれは――自分に何かあったときのためのバックアップだったわけだ」
「っ……まったくあの野郎。相変わらずいい性格してやがる」
そう呟いたヨシュアの表情は、かすかに微笑みながらも苦しげに歪んでいる。ユーリは顔をあげると、そっと封筒の表面を指先でなぞった。
「ともかく、五十嵐様――いや。五十嵐、並びに巫剣 絃夜を訴えることが、我々には可能なわけだ。若干、証拠が足りない部分はあるけどね」
「調べるのは簡単だろう? 冬樹にできたんだ。俺たちにできないわけがない」
眉を寄せるヨシュアにユーリは首を横に振る。
「いいや。冬樹がここまで調べられたのは、彼が巫剣家の人間だったからだ」
「……分家の証拠が集まっているのは、あいつが巫剣の当主だったからか」
現代の『高貴なる人々』の制度において、本家と分家の関係でより厚遇され高い地位を持つのは本家の方だ。――本家の当主の命令ともなれば、口を開かせるのも閉じさせるのもあまり難しいことでは無いのかもしれない。
「じゃあどうする」
「そうは言っても、巫剣家分家の共謀に関しては十二分に証拠がある。――僕たちが調べなければいけないのは、それ以外のことだ」