165,
『いつき、行ってあげるでしょう? まさか――妾のお願いを断らないわよねぇ〜』
コテンと首を傾げるマザー。イツキはうざったそうに目を細めた。
「――嫌だとは言っていないだろう」
マザーから目をそらすと、おどおどと様子をうかがってくる天音を横目で見てイツキはフンと鼻を鳴らした。
「別にクソババアのためについていくわけじゃない。天音のためだ」
『あら、クソでもババアでも無いのよぉ……』
再び低い声で呟くが、マザーはすぐに咳払いをしてうふふ〜と笑う。
『あまね』
「……」
無表情でうつむいていた天音は、イツキをまたちらりと見上げる。一瞬彼女を見た紅い目はすぐに背けられてしまったが、それが拒絶ではないことを天音はもう既に知っていた。
「いいぞ、別に。――どこにだってついていってやる」
イツキが答えると、天音はほんの少し瞳を大きくしてすぐにまたうつむく。イツキは微かに震えるその肩を見下ろす。いつもとは違う天音の様子にひどく既視感があった。
――両親絡みか……
天音の両親は処刑されたと、本人からは聞いていた。それ以上は知らないし、彼女が話さない限りは別に知ろうとも思わない。それでも、天音がここまで冷静さを欠いて縋るような目をするときは、いつだって両親についてのなにかがある時だということには気づいていた。
「……一緒に、来てください。イツキ」
暫くの沈黙の後、天音はぼそりとそう呟く。イツキが黙ってうなずくと、マザーはふっと天音の眼前に飛び上がった。
『あまね――ちゃんと、帰ってくるのよ』
それだけ言って、マザーはもう一度天音の手のひらに乗ると目を閉じる。
次に目を開いたとき、そこにはもうマザーはいなかった。
『ン? アレ、マスター?』
きょとんと目をしばたかせるルクス。天音は彼を見下ろすと呟いた。
「出かけてくる。――いつものところに」
『ア……』
ルクスはなにかに気づいたように天音を見上げる。何かを言おうと嘴を開きかけたが――すぐに言葉を飲み込むと羽ばたく。
『イッテラッシャイ、マスター』
短くそう言って、ルクスは開け放たれた窓から鈍色の外に出ていく。その後ろ姿をぼんやりと眺める天音は、不意にイツキを見た。
「――行くか?」
イツキが尋ねると、天音は黙ったままうなずく。
そのままふらりとロビーから出ていった天音の後を、イツキは追った。
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「どこまで行くんだ?」
壁外地区。中枢区との壁にほど近い、古い建物の密集する東側の裏通り。細い石畳の路地を歩きながら、イツキは隣を歩くフードを被った頭を眺める。
雨は強まる一方だった。
――『傘、一本しか無いんですね』
“兵器”たちは基本傘を使わないため、ベースの出入り口にはいつも天音が使っている大きな傘しか置いていなかった。イツキは傘は必要ないと言ったが――天音はそれを良しとせず、結局イツキが折れて二人で同じ傘に入っている。
イツキは、手に持った傘を心持ち天音の方に傾ける。傘の表面を滑って、雨のしずくが地面に落ちて消えた。
「……この先に、お花屋さんがあるんです。そこに行きたくて」
天音はイツキを見上げることもなくそう答える。それ以上何も言わない天音に、イツキもただ黙って歩くことにした。
《Folium》
薄汚れた看板に緑色の瀟洒な筆記体。古い言葉で『木の葉』を表す言葉を店名に掲げたその店は、しんと静まり返った裏通りによく似合う。カランとドアベルの音を響かせて、天音はその店のドアを押し開けた。