134,
――夢じゃ、無かったんだ
天音は心のどこかでホッとする。優しく触れられた感覚が、ちらりと思い出された。
「――イ、ツキ?」
恐る恐る名前を口にすると、イツキは天音と目線の高さを合わせるように、わずかに身をかがめる。
「なんだ……天音」
「っ!」
ゆったりとした柔らかさを含んだ声が、静かに天音の名前を呼び返す。まっすぐ見通す紅い瞳。ぎゅっと心臓を掴まれたような気がして、天音は両手を握り合わせた。
「っあ……よ、んでみただけ、です。ごめん、なさい」
「ああ、そう」
天音のとぎれとぎれの言葉に、イツキはただそう呟く。その声は淡々としているのに、もう責められているとは感じない。
沈黙。穏やかな空気は、陽だまりのような暖かさで満たされていた。
「イツキ、あの……」
「ん?」
再び呼ばれた名前に、イツキは天音を見つめる。深い蒼色の目が、上目遣いで彼を見ていた。
「実は、その……ずっと工房にこもってた理由、なんですけど――作っていた物があって」
「――死にそうになってまでか?」
イツキは天音の言葉に目を細める。鋭い視線に、天音はたじろぐと、ふらふらと視線を彷徨わせてため息をついた。
「どうしても必要なもので。その――イツキに、あげたくて」
「は?俺、に……?」
思いもよらなかった言葉に、イツキは目を丸くする。天音はうなずくと、開け放たれた窓に目を向けた。
「ルクス」
『ナニ?マスター』
窓枠にとまって首を傾げるルクス。天音はじっと彼を見つめた。
「工房から、アレと工具箱を取ってきて。傷つかないように何かに包んでね」
「――お前な。医者に安静にしていろって言われなかったのか?」
イツキが呆れたように言う。しかし、天音はムスッっとした顔でそれを無視した。
「ルクス早く。――行かないようなら“命令”にするよ」
『ワ、ワカッタ!モッテクルカラ』
天音の低い声の圧力に、ルクスは慌てふためいて青空へと飛び立っていく。イツキは渋い顔をした。
「懲りない奴め」
「無茶はしません!一刻を争うことなんです」
布団を跳ねのけて、天音はベッドの上に膝立ちになるとイツキににじり寄る。
「マントを取ってください」
「――なんで」
胡乱な表情を浮かべるイツキ。天音は有無を言わせぬ眼差しで、彼を見上げた。
「何でもです。早くしてください」
グズグズするなと言わんばかりに、天音は彼のマント留めに手を伸ばす。その手を払い除けてイツキは嘆息した。
「わかったって」
渋々マントを外すイツキの横で、天音は窓の外を見る。ちょうどそのタイミングで、ルクスが戻ってきた。
『モッテキタ』
「ありがとう」
ルクスは、イツキの後ろに大きな工具箱を下ろす。スプリングがまた軋む。そして、天音の手の上にとまると、ハンカチに包まれた何かを手渡す。
天音はそれを受け取ると、神妙な面持ちでそれを開き――両手でイツキに差し出した。
「これを――イツキに」
「これは……」
天音の手のひらの上に乗っていたのは――小さな歯車だった。
透き通るような赤色の金属でできたそれは、陽の光に輝いている。
「この前の戦いで《暴走》が起きた時、すごく苦しそうだったので……」
「これが、《暴走》を食い止められるっていうのか?」
不思議そうな表情で歯車を眺めるイツキに、天音は説明する。
「《暴走》を食い止めるだけではありません。――これは武器なんです」