131,
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ノック。
返事は返ってこない。セレイネは気にもとめずに、ドアを押し開けた。
開け放たれた窓から吹き込む風が、カーテンを揺らす。その隙間から、わずかに明るい朝の光が差し込んでいた。
「寝てはいないんだろう? 返事くらいしな」
後ろ手にドアを閉めながら囁くと、ベッドの脇に座っているイツキが顔を上げた。
「――聞こえなかった」
ぼんやりとした紅い瞳に、風と共に瞬く陽の光が反射する。セレイネはふんと鼻を鳴らした。
「腑抜けてんじゃないよまったく。――天音の様子はどうだい?」
セレイネはベッドに近づいて、眠っている天音を見下ろす。良くなった顔色がイツキの努力を物語っていた。
「悪夢を見たのか、何回か目を覚ました。でもそれ以外は特に」
「そうか。――水は? 飲ませたかね」
「ああ」
イツキは淡々とセレイネの問いに答える。と、不意に目線を下にやった。
「んん……」
天音がほんの少し眉を寄せて、両手でイツキの手を引き寄せていた。イツキはもはや慣れたような手付きで、彼女の手を握り返すと、手の甲をそっと撫でる。
――随分、懐いている
イツキの手を抱きしめるように握って眠る天音を、セレイネはまた驚きを持って眺めた。
――『人がいると寝れないから……出てって』
熱を出して寝込んだ幼い天音に、セレイネはかつてそう言われたことがある。
自分の意識がない瞬間に、誰かがそばにいることを、天音は幼い頃から怖がっている。――両親の死に起因することなのだろうが……唯一、天音の義父であった男を除いて、セレイネでさえも眠っている天音のそばにいることはできなかった。
それが、こうもあっさりと目の前のアーティファクトの男に身を委ねているのだ。
セレイネはイツキをじっと観察した。
無機質な紅い瞳。大きく骨ばった手に、均整のとれた筋肉質な身体。セレイネに言わせれば“気持ちの悪い性癖”を持った天音にとって、この上なく好ましいものだろうが――やはり、それとこれとは違うだろう。
一体、何がそんなに天音を安心させるのか。セレイネには理解することができなかった。
「……なんだ?」
あまりにじっと見すぎたせいか、イツキが訝しげな表情を浮かべてセレイネを見る。
「いいや、なんでも」
セレイネは目を離すと、踵を返してドアの方へと歩いていく。後ろからイツキが声をかけた。
「もういいのか?」
「ああ。その様子じゃあ、どうせまだ暫くは起きないだろう。天音が目を覚ましたら、なんでも良いからすぐに知らせてくれ」
「――わかった」
イツキの返答を聞いて、セレイネはドアを開けると去っていく。その後ろ姿を見送って、イツキは揺れるカーテンをぼんやりと眺めた。
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――『天音。そんなに、人を邪険にするもんじゃない』
――『いい子だから。……辛くても、もっと人を信じることだ』
「とう、さん……?」
耳慣れた懐かしい声がした気がして、目が覚める。ぼんやりとした視界の端で、何かが動いた。
「随分よく寝てたな」
「ふあ!?」
突然グシャグシャと髪を撫でられて、天音は思わず目を瞑った。
「起きたなら、さっさとこの手を離せ」
もう一度目を開けてみると、イツキが呆れ顔で天音のことを覗き込んでいる。上げられたイツキの右手を、何故か自分の両手がしっかりと握りしめていた。
「あ……す、みません」
形容し難い気まずさに襲われて、おずおずとイツキの手を離すと、彼は立ち上がってカーテンを開ける。窓はもう既に開いている。
パッと入り込んできた陽の光に、天音は目を細めた。