顔を見に来られたようです。
ウェグムンド邸での生活に馴染もうと、アレリラは幾つかの努力をしていた。
その中の一つをこなす為、眠る前に書類を読み返していると、珍しくイースティリア様が訪れた。
ショールを羽織って出迎えると、イースティリア様がそっとアレリラの頬に手を触れる。
一緒に暮らし始めてからの、このスキンシップにどうにも慣れない。
何でか、心がそわそわとしてしまい、恥ずかしい。
今まで父親以外の男性に触れられなかったということもあるけれど、手を握るだけでなく顔にまで触れられるような距離感まで近づいたことはなかった。
実はアレリラは、ダンスの教師とボンボリーノ以外とは、ダンスを踊ったことすらない。
今時固いと言われたのだが、婚約者がいるのにどうしても他の殿方と踊る気にならず、随伴夫人やボンボリーノと共に夜会に参加しても、最初のダンスだけ踊って残りは壁の花と化していたからだ。
しかしそんな恥ずかしいと思う内心を、アレリラは悟られたくなかった。
イースティリア様にとってはお飾りの妻であっても、実務能力に関しては期待されているはず。
彼の妻に相応しい振る舞いが出来ることを、証明しなければならない。
尊敬するこの方に、失望されるわけにはいかないのだ。
「どうなさいましたか?」
努めて平静を装って問いかけるアレリラに、イースティリア様はどことなくおかしげにわずかに目を細めてから、質問に答える。
「今日は遅くなり、夕餉を共に出来なかったのでな」
イースティリア様は、アレリラが屋敷に赴いて以降も、決して妻となる自分を粗雑に扱うことはなかった。
朝と夕は必ず食事を共にし、公務の間にある軽食やお茶の時間もなるべく一緒にいるように計らってくれる。
公務中に関しては、彼に仕えている頃から仕事の打ち合わせをしながら食事を摂っていた為、今までと変わらなくはあるのだけれど。
休憩中は仕事の話が減り、雑談の時間が増えた。
行き帰りの馬車の中でも屋敷でも着替えや入浴など以外では一緒にいるので、仕事の話をする時間が減ったのではなく、単純に一緒にいる時間が増えたからこその時間の使い方だ。
今日は、イースティリア様が宰相として男性のみの会食に参加される都合上、業務後に別れてアレリラ一人でお屋敷に戻っていたのだ。
「眠る前に、君の顔が見たくなった」
イースティリア様の言葉に、心臓が跳ねる。
ーーー好ましい、と、思っていただけるのは、良いことです。
アレリラは自分に言い聞かせた。
お飾りであっても、仲が良好であるに越したことはなく、イースティリア様はアレリラとの子を望まれてもいる。
ならば、妻としてそうした行為も当然、行うことになるのだから。
愛するミッフィーユ様ほどではなくとも、親愛を覚えてくれているのだろう。
顔が見たい、という言葉はそういう意味なのだと言い聞かせて。
「基本的に、ずっとお側におりますが。見飽きませんか」
自分でも、可愛げがないなと思うような返事をしてしまったアレリラに、イースティリア様はほんの微かな笑みを見せて。
「飽きないな。君の顔立ちは好ましいものだ。肌の輝きも増しているようで何よりだ。よく眠れているか?」
「睡眠時間は体調管理に重要ですので、きちんと確保させていただいております。肌は、以前いただいた美肌クリームを欠かさず使用しております。肌に合いましたので、イースティリア様の仰った通り、改善されているかと」
「そうか」
うなずいたイースティリア様は、ふとアレリラの眺めていた書類に目を落とした。
「それは」
「屋敷の使用人に関する書類でございます。それぞれにご紹介いただきましたが、まだ顔を見て名前と役割が即座に思い出せない方がいらっしゃいますので」
「君ならば、遅くとも一ヶ月ほどで一致すると思うが」
そこまで根を詰める必要があるのかと言外に問われて、アレリラはこのいつもの調子を取り戻したやり取りに安心しつつ、きちんと答える。
「家政は妻の仕事にございます。誰がどれほどの働きをし、それに見合うだけの報酬を出せているのか、勤務体系やそれぞれに合わせた体調の管理は行えているか。そうしたことに目を光らせる為には、やはり勤めていただいている方の顔と名前くらいは早急に一致させるべきかと」
「顔を見て、どういう動きをしているか、そして出している給金までも思い出せるような詰め込み方は、『顔と名前くらい』ではないと思うがな」
いただいた資料と目にした事柄を、個人ごとに独自に纏めた一枚を取り上げて、イースティリア様はそれを一瞥して満足そうにうなずいた。
「相変わらず、見やすく分かりやすい資料だ。記録として不足もない」
「ありがとうございます」
一応の及第点をいただいて、アレリラは小さく頭を下げる。
しかし、不足がないという言い方をする場合、イースティリア様はそこに改善の余地があるとお思いになっているはずだ。
「どのような点を、加えさせていただけばよろしいでしょう?」
「君の資料は、表面的な記録に限れば完璧なものだ。ゆえに領地のデータや金銭管理などには殊の外優れている。が、人は記録だけで測れるものではないので、私がもしこうした書類を作成するならば」
イースティリア様は、取り上げた資料をこちらに向けた。
それは、この屋敷に勤める執事長の記録を纏めたもの。
「日記をつける」
「日記……ですか」
「そうだ。例えばこの執事長は私が学生の頃から勤めてくれている人物だ。オルムロという名で、規定よりもさらにきちんと横髪を撫で付けるのが好きだな。頭の脇に一筋入っている白髪の線が気に入っているらしい。そして甘いものには目がなく、休みの日には自分で買い求めている」
「意外ですね」
流石に執事長の顔は既に覚えており、厳しそうだが頑健な体格をした中年男性だ。
護衛と言われてもしっくり来るような大柄な人で、体が太ったり緩んだりしている様子は見受けられない。
「私が誰かと面会する際、控えた状態で、失礼にならない程度にジッとテーブルの新しい菓子を品定める様子がある。そうして気に入った茶菓子があると、改めてどこのものかを調べる。他にも、彼には欠かせない毎日のルーティーンが早朝にある」
「どのようなものでしょう?」
「庭で雀に餌をやることだ。雨の日などは餌やりが出来ず少し元気がない」
「……どう言えばいいのか、お可愛らしいですね」
「そうだろう。また、滅多に声は荒げない。根気強く諭すような言い方で、間違ったことは基本的には言わないが、同じ間違いを二度三度と繰り返すことには少々厳しい」
罰則もきちんと申し付け、軽いものであれば一定範囲の草むしりから、重いものだと、住み込みなら休息日に街へ出かけることを禁じたりもするそうだ。
褒賞を自ら与えることはないが、良い働きをするとそっと、イースティリア様の耳に入れて誉めていただけるようお願いもするらしい。
「真面目で穏やかで、お可愛らしい方なのですね」
「そう。という情報を得て、オルムロの顔を見れば、次から思い出せないということはないだろう」
「ええ」
晴れた朝に彼の顔を見ると、今日はご機嫌だろう、などと考えてしまいそうだ。
「だから、日記だ。一言、見かけた誰かが何をしていたのか、どういう人物なのか書き添える。そうしたことを観察して覚えておくと、ただの記録と名前を見るよりも顔を一致させやすく、相手が何を求めているかを考える基準にもなる」
「分かりました」
「邪魔をして済まなかったな」
「いいえ。勉強になりました。ありがとうございます」
イースティリア様に、今度はもう少し深く頭を下げると。
「何かを教えられた時、納得すれば素直に感謝を示せるのが、君の良いところだ」
そう言い置いて、彼は部屋から出て行った。
アレリラが褒められて嬉しかったのは、言うまでもないことだろう。
こうして着々と、尊敬の気持ちだと言い聞かせていた自分の想いが揺さぶられ、恋心だと気づいていってしまうアレリラです。
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