アザーリエ様は可愛らしいお方です。
「お姉様ぁ〜!! 相変わらずお胸がふくよかですわぁ〜〜〜〜!!!!」
地竜の引く巨大な竜車から降り立った女性に向かって、エティッチ様が突撃して抱きついた。
アザーリエ・レイフ公爵夫人。
ウェーブがかった黒髪に浅黒い肌をした、妖艶な雰囲気の女性である。
ロンダリィズ夫人によく似た容姿の彼女は、困ったような微笑みを浮かべて、エティッチ様の頭を撫でて、口を開いた。
「エティッチは、相変わらずですねぇ〜。元気でしたかぁ〜?」
ーーー!?
どこかアーハ様を彷彿とさせる間伸びした口調に、アレリラは軽く目を見張った。
一瞬で妖艶な雰囲気が消えて、どこか牧歌的な印象の表情に変わったのである。
外見に似合わない話し方だけれど、どこかしっくり来るのは、この雰囲気が彼女の素だからだろうか。
そんな姉妹の再会に、ロンダリィズ夫人が軽く鼻から息を吐いて声を掛けようとしたところで。
「母さま!」
と、どこか怒ったような幼子の声が聞こえた。
「あら〜、エティッチ、少し離れて貰っても良いですかぁ〜? キャリィが怒ってますぅ〜」
声が聞こえたほうを見ると、竜車から鋭い目つきの屈強な男性が降りてくるのが見えた。
かなりの長身で、短く刈った黒髪は、剛毛なのか逆立っている。
目を引くのは、精悍な顔立ちの中で、頬から鼻筋にかけて走る刀傷。
外見的特徴から、彼がダインス・レイフ公爵だろう。
その腕には、2歳くらいの、黒髪の幼子が抱かれていた。
怒っていたのはこの幼子のようで、アザーリエ様に向かって「うー! うー!」と言いながら手を伸ばしている。
キャリィ様、という名前らしいその子は、二人のお子様なのだろう。
顔立ちは、父君にも母君にも似ていた。
ーーー可愛らしいですね。
あまり子どもに関わりのある人生ではないけれど、アレリラが昔のフォッシモを思い出して和んでいると。
「わ、私のお姉様ですのに!」
「う〜、あーた!」
離れるように言われたエティッチ様が愕然とした表情をした後に、アザーリエ様を呼び続けるキャリィ様を睨みつける。
「お姉様のふくよかなお胸を奪い合うライバル出現ですわ!」
「うー!」
「年端もいかぬ幼子相手に、何を頭の悪いことを言っていますか」
ついにロンダリィズ夫人が、氷よりもなお冷たい声音でエティッチ様を嗜めると、彼女の動きが止まる。
「爵位が上の方がいる場で、何度口を先に開かぬよう、礼節を欠いた振る舞いをせぬよう、伝えても分からないのでしたら、その口を縫い付け柱に括り付けますよ」
「ガッハッハ、固いこと言わなくても良いじゃねぇか、ラスリィ! ダインスもアザーリエも家族なんだからよ!!」
ーーーわたくしは、ロンダリィズ夫人に賛同致しますが。
ぽん、と彼女の肩を叩いて笑い、のしのしとダインス様に歩み寄っていくグリムド様に、ロンダリィズ夫人の体からゆらりと魔力が漏れ出て、紫色を帯びて立ち上る。
「全く良くはありません」
相当怒っている様子で、手にした扇が握り締められ過ぎてギシギシと音を立てている。
「ももも、申し訳ありませんお母様!!」
グリムド様は全く気にしていないけれど、エティッチ様はやり過ぎたことを悟ったのか、あわあわと謝罪していた。
見ると、直接怒られている訳ではないアザーリエ様も青ざめて、キャリィ様をダインス様から受け取った姿勢のまま、おどおどと視線を彷徨わせている。
そうして萎縮した態度を取るようになると、途端に何故か、くらりとするような色香が立ち上っているように感じて、アレリラは小さく首を横に振った。
ーーーこのような方だったのですね。
〝傾国の妖女〟という異名や、『誘うような色香』という評判の意味が、よく分かる。
同時に、それが性格に何ら関係のないどころか、おそらく本人にとってはとても厄介なものなのだろうということも理解した。
アザーリエ様は、昔感じた通りに、どちらかと言えば気弱な方なのだ。
なのに、嫋やかな様子を見せると、蠱惑的な雰囲気が漂うようになる。
ーーーまるで呪いですね。
そんな益体もないことを考えてしまうくらいには、彼女のギャップは凄まじかった。
しかし、そんなアザーリエ様の様子を意に介さない人物の筆頭であるグリムド様は「アザーリエ、疲れたか!? ゆっくり休めよ!」とごく普通に声をかけ、次にダインス様に拳を差し出す。
「よう跳ねっ返りダインス! 久しぶりだな!」
「ああ。相変わらず無作法そうで安心したぜ、グリムド」
驚いたことに、ダインス様はニヤッと笑顔を浮かべ、差し出された拳に同様に拳を打ち付けた。
終戦の英雄であり、国家間横断鉄道の立役者と呼ばれる二人は、随分と打ち解けた仲のようだ。
伯爵と公爵という爵位の違いもあり、かつ義父と義理の息子という関係だけれど、お互いに敬語どころか遠慮も感じられない。
ダインス様の顔の傷はグリムド様が、服の隙間から見えるグリムド様の胸元の傷はダインス様がつけたものだという情報から、元は敵同士であり、本気で殺し合ったことは間違いのない事実の筈なのだけれど。
「口の利き方にゃ気をつけろよ!? 本気で地面に這いつくばらせるぞ!?」
「出来るもんならやってみろよ。こっちもアンタに泥つけてやるつもりで来てんだ。稽古場行くか?」
ーーーそれとも、やはり仲が悪いのでしょうか?
けれど、アザーリエ様をダインス様に嫁がせたのは、エティッチ様に聞く限りあまり政略的な意味合いはなさそうであり、満面の笑みで煽り合う二人はとても楽しそうに見える。
この手の男性がたが何を考えているのかは、アレリラにはよく分からない。
少なくとも、イースティリア様とはまるで違う人種である。
彼らがこちらに近づいてくると、エティッチ様をこってりと絞ったロンダリィズ夫人が、魂の抜けかけた顔をしている彼女の横で、一部の隙もない姿勢で淑女の礼の姿勢を取る。
「レイフ公爵。それにアザーリエ。無事の到着を大変喜ばしく思います」
「お、お母様も、お元気そうで何よりですぅ〜……!」
「義母殿、お心遣いに感謝致します」
まだ及び腰のアザーリエ様と、表情を引き締めて礼儀を示したダインス様が答えると、ロンダリィズ夫人は頭を上げて、こちらに目を向けた。
「ご紹介致します。こちらは現バルザム帝国宰相位にあらせられるイースティリア・ウェグムンド侯爵閣下と先日ご成婚なさった、アレリラ・ウェグムンド夫人でございます。彼女自身も、現職の筆頭宰相秘書官にあらせられます」
そう紹介されて、アレリラも淑女の礼の姿勢を取る。
まだ、直接ダインス様と言葉を交わしていないのでそのまま待っていると、ロンダリィズ夫人が続けた。
「ウェグムンド夫人、こちらの方々は隣国のダインス・レイフ公爵、及びその妻であり我が娘であるアザーリエ・レイフ、並びに長子キャリィ・レイフです」
「ダインスだ、ウェグムンド夫人。お会いできて光栄に思う。顔を上げて欲しい」
「あ、アザーリエ・レイフです……よろしくお願いしますぅ……キャリィ、ご挨拶して?」
「ましゅ!」
「過分なお言葉を賜り、誠にありがとうございます。ダインス・レイフ公爵様。並びにアザーリエ・レイフ公爵夫人。そしてキャリィ様も。ただいまご紹介に預かりました、アレリラ・ウェグムンドと申します。以後お見知り置きを」
挨拶を終えて顔を上げると、アザーリエ様が、何故かほう、と息を吐いた。
どうなさったのかと思っていると。
「ほわー……ダインス様、所作が凄く綺麗な方ですねぇ〜……お顔立ちも大変麗しいですぅ〜」
「あーた! きれえ!」
「そうだな。宰相閣下は、幸運な御仁であらせられるようだ」
「お褒めに与り誠にありがとうございます。レイフ公爵にあらせられましては、その武勇と叡智を、レイフ夫人におかれましてはその功績を存じ上げ、尊敬致しております。ご両名にお目通り願えたこと、光栄に感じております」
向こうはただの社交辞令だろうけれど、アレリラは本心を伝えた。
何せ相手は、偉業の公爵と〝労働環境改善の慈母〟である。
けれど。
「貴女は公爵夫人になっても、相変わらずピシッとしませんね」
「も、申し訳ありません~……」
そんな功績の持ち主であっても、母親の前では形無しのようだ。
けれどロンダリィズ夫人は、肩を竦めて上目遣いになったアザーリエ様に、こう言い足した。
「我が娘たちは本当に頼りないですが……少なくとも貴女が今、幸せそうなのは何よりです」
「えへへー、はいぃ〜」
「な、何で今私までさりげにディスったのですか!? お母様!?」
照れながら頬を緩めるアザーリエ様と、魂が戻ってきたらしいエティッチ様がそれぞれに口を開くけれど、ロンダリィズ夫人の興味はすぐに二人から逸れたようだった。
「アザーリエ、キャリィを預かりましょう」
「あ、はい〜。キャリィ、お母様を覚えていますかぁ〜?」
「ばーば!」
キャッキャ、と、キャリィ様が答えて、手を伸ばしたロンダリィズ夫人にすんなりと抱かれる。
すると、彼女の表情が目に見えて綻んだ。
「重くなりましたね。健康なのは良いことです」
「いーこと!」
「お母様……その優しさの一欠片でも良いから、私にも与えてくれないかしら……」
上機嫌のキャリィに、我が身を引き比べてエティッチ様が羨ましそうに指を咥えている。
そんな様子を見て、アザーリエ様が首を傾げた。
「キャリィは〜、お母様にだけは本当に懐いてますねぇ〜」
「お前と顔が似てるからだろ! 俺にはちっとも懐きやがらねぇのに!」
「そりゃ『じーじ』は顔がバチクソ怖ぇ上に声がデケェからな!」
彼女の疑問に、グリムド様が口をへの字に曲げながら答えて、ダインス様が茶化す。
とても平和な家族の光景である。
外では嵐のようなこの一家も……家族ばかりの場では、ごく普通の人々なのだ。
そんな当たり前の事実も、旅行先としてこの場に赴かなければ、目にすることもなかった。
ーーー彼らもまた、わたくし達が守るべき平和の一環……帝国の民。
アレリラは、『見聞を広げる』というのがどういうことなのかを、今まさに、肌で感じていた。
実際に目で見なければ知ることの出来ないものが、世の中にはたくさんある。
ーーーわたくしは、幸運です。
知識だけでなく実際を知ることは、これ程に角度の違う物の見方、新たな見識を与えてくれるのだ。
予定を繰り上げてしまったせいで国家間横断鉄道を直接目にすることは出来なかったけれど、きっとそれも実際に見れば、アレリラに新たな感動を与えてくれるのだろう。
ーーーもっと落ち着いたら……またイースティリア様とこの地を訪れ、目にすることが出来るでしょうか。
そう考えが芽生えることすらも、今までのアレリラにはなかったものだ。
「では、中に入りましょう」
思索に耽っている内に、ロンダリィズ夫人がさっさとキャリィ様を連れて本邸に戻っていく。
どことなく、足取りが軽く、声音が柔らかい。
あの強かで厳格なロンダリィズ夫人も太刀打ち出来ないほど、『孫の可愛さ』というものは強烈なのかもしれない。
「ダインス! 飯は食ったか!? 稽古場に行くぞ!」
「おう。そろそろ勝ち越させて貰うぜ! ……アザーリエ、君はどうする?」
ダインス様もダインス様で。
グリムド様と話す時はまるでヤンチャな少年のようなのに、アザーリエ様にはとても優しい声を掛ける。
少々無作法だったけれど、アレリラはアザーリエ様が答える前にそっと会話に口を挟んだ。
「申し訳ありません。もしお時間が宜しければ、アザーリエ様の功績について、お話する時間を頂戴出来ればと」
あまり時間もなく、祖父からのせっかくの助言である。
今から時間があるのなら、少々二人で話をしてみたかった。
するとエティッチ様が、パン! と手を叩く。
「アレリラ様、それはとっても良い考えですわ! ちょうどお邪魔……キャリィもお母様に連れられて屋敷に戻りましたし、ここは三人で……」
「エティッチ」
すると屋敷に戻った筈のロンダリィズ夫人が、ひょい、と顔を覗かせて、彼女の名前を呼ぶ。
「貴女には、今日中に魔導炉用の薪割りとお得意様出荷用の魔蜜作り、それに魔導糸を一巻き作る罰を命じます」
「き、今日中!? そんなぁ……一人でですか〜……!?」
「当然でしょう。ここ最近の度重なる失態、あまりにも目に余ります。心底反省し、そろそろ改めなければ、来季の社交シーズンは領地で過ごすことになると心に刻みなさい」
「う゛っ……!!」
エティッチ様は、まだ学生……貴族学校の最終学年なので、普段学校がある時期は帝都のタウンハウスで過ごされている。
社交シーズンは基本的に休みの時期なので、『長期休暇に遊ばせない』と言われたに等しい話だ。
「無体ですわ……それはあまりにも無体ですわぁ〜!! アレリラ様、お姉様、また明日ぁ〜ですわぁ〜!!」
涙を拭いながら、エティッチ様は脱兎の如く駆け出した。
アレリラの知識と照らし合わせた作業量から逆算するに、今から必死でやらないと、おそらく終わるのが夜半過ぎになるような作業量である。
全員がいなくなり、二人きりになると、少し緊張した様子のアザーリエ様に、アレリラは最近覚えた『柔らかい微笑み』というものを浮かべてみる。
「先日見せていただいたのですが、温室の青薔薇が見頃のようです。少しお散歩しながら、話を伺ってもよろしいでしょうか?」
「あ、は、はい! わたくしで良ければっ! ……えーと、それは良いのですけどぉ〜、そういえば、温室を管理している爺やの姿が見えませんねぇ〜?」
ほわぁ、と口を開いた後、ちょっとだけ安堵したようにニヘラ、と笑ったアザーリエ様は、続いてキョロキョロと周りを見回す。
「ラトニ氏は、少々イースティリア様とお話をなさっておられるようです」
「あ、そうなんですねぇ〜。勝手に入っても怒らないでしょうかぁ〜? 爺やは、温室を大事にしているのでぇ〜」
「先日、自由に立ち入る許可はいただいております。では、参りましょう」
と、アレリラがそちらに足を向けようとすると。
「あ、あのぉ〜」
「はい」
「し、初対面で不躾なお願いなのですがぁ〜……あの、手を、握ってもよろしいでしょうかぁ〜……」
「手、ですか?」
そんな申し出を受けたのは、男性を含めても初めてだった。
ちょっと恥ずかしそうに笑ったアザーリエ様は、指先を擦り合わせながら、小さな声で理由を口にする。
「そのぉ〜……わたくし、よくコケるので、ダインス様に『歩く時は誰かと一緒に』と言われているのですぅ〜……で、でも、今はダインス様がいらっしゃらないのでぇ〜」
「なるほど」
つまづかないように支えが欲しい、ということなのだろう。
使用人でも構わないと思うのだけれど、と近くにいるレイフ家の使用人らしき老人に目を向けるが、彼は先に口を開いた。
「他の使用人は、アザーリエ様の魅力に当てられてしまいますし、私めがエスコートすると旦那様が嫉妬なされます。よろしければお願いしたく」
逆に頼まれてしまい、そこまで拒否する理由もないのでアレリラは頷いた。
「では、お手を」
「は、はい! ありがとうございますぅ〜!」
アレリラが手を差し出すと、アザーリエ様はパッと顔を輝かせて手を握った。
お互いにグローブ越しだけれど、ほんのりと感じた手の感触は、女性にしては少々固いようだった。
「……アザーリエ様は、何か、手の皮が固くなるような仕事を?」
「あ、分かってしまいますかぁ〜? あのですねぇ〜……わたくし、あまり役に立たないのでぇ〜、ずっと女主人していると、どんどん落ち込んでしまうのですぅ〜」
「はい」
「な、なのでぇ〜、週に一、二度であれば、おうちのことをしても良いと言われているのでぇ〜、お洗濯をしたり〜、皆のお料理を作ったり〜、させて貰っているのですぅ〜!」
「なるほど」
要は、精神安定の為にたまに使用人の仕事をしている、ということなのだろう。
素晴らしい功績をお持ちの方でも、そのような気持ちに陥ることがあるのだ。
なぜ家事に励むと落ち着くのかはよく分からないけれど、ロンダリィズの方針……『自分の身の回りの世話は、最低限自分で出来る様に』というもの……はエティッチ様から聞いて知っている。
家事というものに、幼い頃から慣れ親しんでいることが理由だろうか、と推測して。
「理解いたしました」
とアレリラが頷くと、アザーリエ様がどことなくホッとした様子を見せる。
「あ……アレリラ夫人はぁ〜、この話を聞いても変な顔をしないのですねぇ〜」
「理由さえ分かれば、それについてとやかく言う立場にはありませんので。そもそも、おかしいと言うのであれば、帝国中枢で宰相筆頭秘書官を務めているわたくしも、対外的にはおかしな目で見られる側の人間です」
「なるほどぉ〜……えへへ、少し、安心しましたぁ〜」
ぎゅ、と手を握る力を強めた彼女は、目尻をさらに下げて笑う。
「短い間ですが、よろしくお願い致しますぅ〜」
「はい。わたくしの方こそ、よろしくお願い致します」
そうして、手を握り合ったまま、二人で温室へと向かう。
この出会ってからの短いやり取りの中で、一つ分かったことを、心の中で呟く。
ーーーアザーリエ様は、本当に可愛らしい方ですね。




