偉大なる先達。
「イースティリア様は、どちらに?」
寝衣をきちんと身につけ、長いショールで上半身を覆ったアレリラは、祖父が待っているという遊戯室を訪れて尋ねる。
「彼も寝支度を整えているよ」
「お祖父様は?」
「我は君を待っていたとも。座らないか?」
そう対面の席を勧める祖父の前には、チェス盤が置かれていた。
「久しぶりに一つ、どうだろう?」
「ご一緒させていただきます」
小さな頃はコテンパンに負かされたけれど、今ならどうなのだろう。
祖父は、相手が誰でも手を抜かない人だった。
手は抜いていたのかもしれないが、わざと負けるような真似はしない人だった、という方が正しいだろうか。
「ここでの滞在の後は、ロンダリィズ伯爵領に向かうんだろう?」
「その予定です。元々の予定通りではありますが、お祖父様の手紙通りに、スロード氏に会いに行く予定です」
駒を交互に動かしながら、アレリラは告げる。
「ああ、良いね。……そうしたら、君にはもう一つ、良い情報をあげようかな」
「良い情報、ですか?」
コン、と駒を打った後に顔を見ると、祖父は笑みを浮かべたまま小さく頷いた。
「アザーリエ・レイフ公爵夫人が、数日中に実家に帰って来るらしい、と聞いている。可能なら、彼女にも会うことをお勧めするよ」
その言葉に、アレリラは考えた。
何故か、と理由を問うのは簡単だけれど、時間があるこの状況なら、少し自分で理由を探るくらいのことはしておきたい。
アザーリエ・レイフ公爵夫人は、ロンダリィズ伯爵の長女だ。
昔、ボンボリーノと共に男性に囲まれているのを、見かけたくらいだけれど。
彼女に関しては、悪い噂しか聞かない。
王太子殿下と王太子妃殿下を誑かし、幾多の男性を虜にする色香を纏う女性。
夜会の場をかき乱し、一つ上の世代にいる女性の一部からは、蛇蝎の如く忌み嫌われていたようだ。
ーーーそして、北の国に嫁いだ。
大街道計画の発端は、ウィルダリア王太子妃が彼女に会うのを楽にする為だ、という話もある。
もちろん、それだけで巨額の資金は動かないので、実際に多くの人に利益があるから、実行されるのだけれど。
確か、向こうの終戦の英雄である、北の公爵の元に嫁いだ筈だ。
口さがない噂で『隣国への人質として、あるいは終戦の対価として献上されたのだ』と、いう話も、耳にした記憶がある。
直接の関わりがない、アレリラにとっては謎に包まれた女性なのだけれど。
「……もしかして、北の国の内情に、何か関わりがある話でしょうか」
「うん、君は幼い頃から思っていたけれど、やはり聡明だね。そのまま魅力的な女性に育ってくれて、何よりだよ」
笑いながら祖父の打った駒を見て、アレリラは固まった。
ーーーこれは。
不意の位置から現れた駒は、こちらの狙いをただ一手で封じるもの。
気負いも思索もなく、祖父はそれをノータイムで打った。
「さ、考えなさい。その間に、少し話をしよう。北の国では、急速な意識改革が行われている。あちらでは、庶民の働きに対して『労働時間』という概念が生まれているそうだ」
「労働時間……」
「うん。君は、妊婦の侍女にいち早く気づき、少し働く量を減らして体を労るようにウェグムンド侯爵家で進言したそうだね。概念としては、それと似たような話だ」
盤面の解決方法が思いつかない間に、祖父はつらつらと話を続ける。
「同時に、女性の権利に関しても議論が盛んに行われているんだけどね。法の整備という形で表に現れ出したのは、ここ二年くらいのことだ。それを、議論の場に上げたのはとある公爵で、提案したのは彼の妻だそうだ」
どうにか手を打つと、祖父はすぐに次の手を出してきた。
このままでは、明らかな劣勢に追い込まれる。
ジッと盤面を見つめたまま、アレリラは祖父の言葉に答えた。
「それが、レイフ公爵夫人ですか」
打開の手は思いつかない。
楽しげな祖父は、顎を撫でながら『ご名答』と応じた。
「初期の帝国は、多くの国を併呑して大きくなった。その中で、積極的に技術や思想、あるいは有益な人材を取り込んでいくことで、権勢を極めたとも言える」
「今また、その変化の時期に差し掛かっている、と?」
そうして、どうにかアレリラが捻り出した一手に、祖父は手を叩く。
「君たち次の世代は、その波に乗り遅れてはいけない。あらゆるものを貪欲に吸収していく必要がある。その中の一つが、学を好む女性、という新たな規範を、道の在り方を示す人物である、と我は考えている」
「だから……タイア領では、女性にも読み書き算術を?」
「ああ。人は平等である、というのなら、魔力の制御以外の理由で、女性にも更なる学びを与えて悪い訳がないからね」
「南のライオネル王国では、女性も男性と完全に同じ貴族学校のカリキュラムで、学ぶそうです」
「あの国は、武勇の国だからね。男性も女性も強い者が好まれる下地があったのだろう。……この国でそれを作るのは、君だ」
そうして、コツン、と打たれた一手は、またしてもアレリラの予想を超えるもの。
「立ち塞がる数々の困難を、君は今まで自身の才覚で打ち崩して来た。その力を今度は、同じような境遇にある女性を救うために、生かして欲しい」
故に、アザーリエ様に会う必要がある、と言いたのだろうけれど。
「荷が重い、と言わせていただいても?」
「おや、弱気だね」
この上に打開する一手が、思いつかない。
自分のことだけなら、あるいは目に見える人々だけであれば、手助けする方法は思いつくけれど。
顔も知れぬ人々までとなれば、見えない重荷が両肩にのしかかるようで。
「ーーーあまり、妻をいじめないでいただきたい」
不意に横から声が聞こえて、白い手が伸びてくる。
そうして、一つの駒がその指先によって動くと、劣勢だった状況が再び拮抗した。
「イース様」
「アル一人で、それを成す必要などない、と、サガルドゥ殿下であれば理解しておられるでしょう」
「ははは。時間切れだな。孫娘の心強い伴侶のご登場だ」
パッと両手を開いた祖父は、悪戯っぽい笑顔で片目を閉じる。
「そこが、君の弱点だ。他者の言葉が正論に聞こえると、視野が狭まる。世の中には、一面の真理だけが存在しているわけではないから、あまり真っ直ぐに受け止め過ぎないことだ」
「……どういう、ことでしょう?」
人の手が入ったからか、それ以上チェスを続ける気はないのか、祖父が立ち上がった。
「女性の権利の保証というのは、何も学習や新たな生き方を提示して、皆を無理やりそこに放り込むことではない、ということだよ」
畑を耕して生きる男性が、皆、各地を渡り歩く商売人になることを望むわけではないように。
田舎で獣を狩る男性が、皆都会で人に雇われることを望むわけではないように。
「昔ながらの、刺繍をして家事を助け、静かに生きることを望む女性もまた、君のような新しい生き方を望む女性と同じ数だけ居るだろう」
チラリとイースティリア様を見た祖父は、一瞬だけ帝王陛下のような凄みのある笑みを浮かべて、立ち上がったまま、一つの駒を移動する。
「君達が成すべきことは、そうした人々が誰しも自分の自由に生きられるよう、助けることさ。期待しているよ」
そうして祖父が『おやすみ』と退出すると、イースティリア様は盤面に目を戻して、深く息を吐く。
「……二人がかりでも、あの方にはまだ敵わないようだな」
見下ろした盤上は、未だ『チェック』も掛かっていない。
しかしどのような形で続けたとしても、『チェックメイト』にしか辿り着かないことが、アレリラにも分かった。
「追いつくには、努力で、どうにかなるのでしょうか」
「さて。それでも、我々はやるしかない。サガルドゥ殿下も、帝王陛下も、いつまでもこの世におられる訳ではないからだ」
「……そうですね」
「そして殿下は、少しでも多くのものを我々の手元に残しておこうと、奮闘して下さっている」
イースティリア様はそう言いながら、一つの巻物を手渡してくれた。
「これは?」
「権利ごと君に渡す、と、殿下の仰った『魔法の地図』だ」
言われて、紐を解いて中身を見たアレリラは。
「まぁ……」
思わず、声を漏らしてしまった。
驚きが先に来て、それが収まると徐々に口元が緩むのが、自分でも分かる。
「なんて、魅力的な……」
そこに記されていたのは、最新型の魔導機関の設計図と、街灯、そして導線の渡し方だった。
『サガルドゥ・タイア』の署名と押印があり、彼が自分で設計したことを証明するロンダリィズ伯爵の併署が添えられている。
「サガルドゥ殿下と、どのような話を?」
最初から聞いていたわけではないからか、何故かイースティリア様がアレリラの顔を凝視しながら問いかけるのに。
アレリラは、自分の顔が緩んでいるのに気づいて、表情を引き締める。
「アザーリエ・レイフ公爵夫人が、ロンダリィズ伯爵領に帰郷されるそうです」
「なるほど。会うことが、君にとって有益だと?」
「はい」
「どうする?」
イースティリア様が、アレリラの肩に手を添えたので、その手に自分の手を重ねながら、アレリラは答える。
「会ってみたい、と思っております。どのような方なのか、詳しく存じ上げませんので」




